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ごきげんに暮らす

週間大阪日日新聞の記事【コロナワクチン副作用被害 3年で過去45年上回る ワクチン問題研究会、厚労省で会見】より

 国内で過去45年間の従来の全ワクチン被害認定件数は3522件。うち死亡認定は151件。
 一方で、厚生労働省が発表した最新データ(1月26日付け分)によると、コロナワクチン接種による申請受理件数は1万135件。うち、死亡に係る受理件数は1158件。このうち、認定された件数は6088件、死亡の認定件数453件。従来型のすべてのワクチンに比べ、突出していることが分かる。

https://weekly-osakanichi2.net/?p=13442

記事には大手メディアも取材に来ていたが報道していない、とも書かれています。政府が頬かむりしたいことを突っつくことを自粛しているのか、製薬会社などのスポンサーに忖度しているのか…いずれにせよ、薬害としては過去最高の被害になっているんじゃないかな。

ワクチンのお話会を2021年までやっていましたが、どうも「予防接種」に限らず、「健康」についての世の中の認識が新しいフェーズ(?)に入ったようで、まだ折り合いがつけられずにいます。わたし自身はコロナ前となにも変わったことはしていない…もとい、より森と田畑で過ごす時間が増えたくらいで、セルフケアに関しては変化なし。多くの人が感染を意識してマスクをし、ワクチンを接種し、まめに手指の消毒を行うようになり、密を避け、換気を行い、発熱時の医療機関の利用のしかたとか、新興感染症ではじまった習慣をそのまま続けている人や施設もあります。

始まった頃はヨーロッパやアメリカの阿鼻叫喚が日本でも起きる!とばかりに大騒ぎをし、だれもが怯えたものですが、実際には日本をはじめとするアジア諸国では重症化率も死亡率もそれほど高くはなりませんでした。それでも厳重な警戒態勢を敷いた国に倣うかのように学校や飲食店は休みになり、その一方で旅行は推奨され、流行の波がくるたびに「気の緩み」と叱咤されるわけのわからない状況が続きました。

空気感染することがわかり、マスクにはあまり意味がないことがわかっても公共の場ではドレスコードとして定着していたり、
ワクチンが行き渡って集団免疫が形成されればそれまでの暮らしに戻ると言われたのにそうはならなかったし、
ウィルスの変異速度が早くていくらワクチンを使っても変異株には対応できないとわかってもなお数ヶ月おきの接種が勧められ、7回目、
しかもそのワクチンは従来の時間をかけた治験をおこなっていない試作段階ともいえるもの。

当初から警告を発信している医療関係者、科学者がいたのに、それが行政の舵取りに影響をあたえることはなく、製薬会社の思惑通りに全国民を動員しての治験が行われたようなもの。

言わんこっちゃない!

そうは言いたくなかったから

なにも起きませんように。

そう願ったけど、やっぱり被害は起きていた。

そのことがようやくはっきりとしたデータになって現れるようになってきた。

ここで総括しておかなくてどうするんだろう。

「あのときはどうしようもなかったから、しかたないんだ」
と、第二次世界大戦の敗戦を総括できなかったのと
おなじことを繰り返したくはありません。


わたしたちには考える知性と、記録に残すための文字という文明がある。
改竄したり、恣意的な読み方をするのが得意な政府には
そろそろお引き取りいただいて
「あやまちをくりかえさない」ための知識として
みんなで共有しておく必要があると思う。

膨大な被害が明らかになってきたら、みなさん「勧めた覚えはない」と責任逃れです。「努力義務」とはこういうことだと覚えておかなきゃ。

「未接種者を探して打ちに行く」
「接種しない言い訳は受け付けない」と
強い口調で推奨していた国でも
「強制した覚えはない(だから被害にあった人は気の毒だしそれなりの保証もしますが、わたしたちの責任ではない)」と、個人に責任転嫁しているので
記念碑的にぺたぺたしておくね。

ところでみなさん。
「新しい生活様式」は5類に格下げされてから「廃止」してもよかったことをご存知かと思います。
それでも、感染防止のために公民館の座布団が無くなったままで、人数制限が続いたり(密を避けるため)、スーパーのレジの足元の線がこまめに貼り替えられたり…定着した?という感じもそこはかとなくあります。行政の窓口や医療機関の人はほぼ全員マスク着用。商店も飲食店の厨房でもないのにマスクしてない人はまれ。小さな郵便局の窓口で素顔の人がいてなんだか嬉しくなっちゃうというへんてこりんな気分。
真っ最中で誰も彼もがマスクをしていた時期に、ホームセンターでわたしたちふたりの素顔を見て、満面の笑みでぴょんぴょん跳ね出した女の子の気持ちがわかっちゃった。

そう。
わたしたちは「ふれる」「笑みを交わす」ことで「安全」を確かめ合う生き物だから。
わたしたちの神経システムがそういうふうにできているということ。
だから、口元を覆う、近づくことや触れることを避けあう、ことが「感染予防」という「安全」のためであっても、何十万年もかかって「そういうふう」に進化した神経システムです、たかだか数十ヶ月で変わるわけはないのですね。

感染対策によって神経レベルでの「安全」が蔑ろにされると、どうしたって自律神経に負荷がかかります。「安全ではないかも?」は「警戒」寄りですから、緊張が染み付きがち。薪仕事や畑仕事などの活動はチェンソーや刈払機が動いている間の「警戒」と、身体的な活動とコミュニケーション(安全)のバランスが取りやすいし、疲労感も自覚しやすいものです。万全の感染対策をして意識は「安全」と認識していても、神経レベルでじんわりと「警戒」がつづくマチナカの暮らしとは随分異なります。それがよくわかった4年間でした。

そんなこともあって、都会になかなか足が向かなくなっていますが、すこぶる「ごきげん」に暮らしています。唯一の更年期症状だった五十肩では「筋肉は裏切らないけど関節は裏切る」を痛感する経験もできたし、日曜日(1月18日)の夜は久しぶりの頭痛からの発熱でしたが、数時間で終了(夜8時くらいに頭痛が始まって10時に就寝し、0時頃に悪寒がして目が覚めて靴下と湯たんぽを入れ、3時くらいに今度は熱くて汗びっしょりになって脈拍120超え、水を飲んで寝たら7時にスッキリ目が覚めた)。

ごきげんに暮らすためには
・余計なものは入れない、溜めない
・いらないものは出す
・出るものを抑圧しない
そのためにも「流れとリズム」なのだけれど
カラダを出入りするものは、口や皮膚から入るものだけではなく(飲食呼吸経皮)、耳や目から「情報」が入るし、口から言葉が、手や体全体の表現でアウトプットもしている。

どんなものを「入れる」のか、純粋でなくてもそれなりに選んだほうがいいのと同じで、どこでどのように「出す」のかもわたしたちは選ぶことができる。入れたものはいずれ出ていく。出せずに淀むとやむ(止む・病む)。

・「入れる」ものの選び方
・「出る」ものの出し方 
・「流れとリズム」の保ち方

ごきげんに暮らすためのコツはここにあって、一瞬ごとにちがう状況、ひとりひとりの個性が違うのだから「これが正解」とマニュアル化できるものでは決して無いはず。

だから、注射で入れる人工物のようなもの(ワクチンとかね)の場合、それが今の自分に本当に必要かどうか、情報を集めて、考えて、選んだほうがいいと思うのです。耳と目を通じて入ってくる情報だって、情報の発信者の思惑に惑わされない選択をしないと、簡単にコントロールされてしまうことを専門家や政治家が教えてくれています(責任逃れの手のひら返しをして見せてくれています)。

国や製薬会社のような大きな組織の思惑や、男尊女卑・家父長制的価値観のしわ寄せを食らった人たちが「わたしはわたしを大切にします(犠牲になりません)」と声を上げ始めたのが、ワクチンの被害報告であり、#metoo 。

詰まっていたものが流れ出しただけなので、止める必要はなくて、ふたたび詰まったりしないようにひとりでも多くの人が「選び方」のアップデートをするタイミングなのだと思います。

わたしを大切にできる方を選ぶ

「お年寄りのため」でも、「集団免疫という公衆衛生のため」でもなく、
今のわたしを大切にする
「世間に波風をたてないため」や、「家族に心配をかけないため」ではなく
今のわたしを大切にする

わたしを大切にする選び方ができる人は
他の人の選び方も尊重できます。

「NO」を言われて尊重できないのは
本当の意味で自分を大切にしていないからかもしれません。

利己的だ、わがままだ、迷惑だ、
と感じるのは大きな力や価値観に自分を明け渡したから。

ひとつの「NO」でまるごとの自分を否定された
と感じるのは大きな力や価値観に自分を明け渡して
もともと自分の中にある多様な要素をないがしろにし続けたから。

「ごきげんに暮らす」というのは実はとてもシンプルで
わたしを大切にできる方を選ぶ
の連続

常にそうすることが難しくても、選ぶ基準のベースがそこにあれば、選び直すことができます。間違えることがあっても、選び直すことができます。意識や知識で選ぶと間違えることは多いですが、カラダはめったに間違いません。

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