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2021年12月 読書の記録

毎月読み終わった本をふりかえっています。

のんびりしていたらもう1月も下旬になっていてびっくりした。先月は三体シリーズとともに過ぎていき、でもそれ以外もいろいろと読めたのでよかった。

目録(8冊)

  • 戦争と平和 6(トルストイ)

  • コンビニ人間(村田沙耶香)

  • ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと(奥野克己)

  • 収容所のプルースト(ジョゼフ・チャプスキ)

  • 三体 Ⅰ・Ⅱ(劉慈欣)

  • 女が死ぬ(松田青子)

  • サンライト(永井宏)


『戦争と平和』読了

ロシア文学にはなんとなく近づきがたい印象があった。内容もボリュームも文章の密度もヘビーで、寝っ転がって読んだりしちゃいけないような。新潮文庫の夏の100冊キャンペーンかなにかにひかれて読んだ『罪と罰』が、中学生のころの自分にとってそれまでにない重めの読書体験だったことに始まってるのかもしれない。

昨年、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んで、その印象が少し改まった。感覚的にはドストエフスキーより読みやすく、作家の言いたいことや意図していることにより近づいているような気がした。まあそもそも中学生時代と今とでは自分も環境も別ものなので、今読むとまた違うかも。あとは訳者の相性もあったと思う。

そういうわけで、アンナ・カレーニナに引き続き、同じ光文社古典新訳文庫から出ている『戦争と平和』を読んだ。昨年9月に刊行された新訳版で完走した。

作品全体では、主人公のひとりであるピエールが対ナポレオン戦争の戦場を眺めているシーン(たしか5巻)が一番印象に残っている。美しい農村の風景と両軍の兵士の群れのコントラストがドラマチックに描かれていて、「国破れて山河あり」の詩を思い出したりした。

場面ごとにさまざまな人物の視線が切り替わっていき、ある人物が思いを馳せる相手に、次は視点が移って別の人物が登場し…という流れで物語が進んでいく。そのため全体として「どうだった」という印象を言葉にするのが難しいのだけど、それぞれの登場人物の思考回路や見たもの感じたものが緻密に描かれているので、没入感があった。人間関係は双方の主観でのみ存在している。だから第三者が客観的に表現することは至難の業だなと思った。

ベビーエンドの物語

『戦争と平和』は、最終的には生き残った登場人物どうしがくっついたりして、その子どもたちに時代が移っていくところで終わる。そういう「二人が結婚して、子どもができる(そして幸せに暮らす)」という終わり方をする小説は古今東西たくさんあるし、自分もなんとなく、その種のハッピーエンドの物語のほうがバッドエンドのものより好きだった。

村田沙耶香『コンビニ人間』の解説を中村文則さんが書いていて、そこに「ベビーエンド」という言葉が出てくる。まさに、二人の間に赤ちゃんが生まれるところで終わる物語を指すらしいが、次の文章が頭に残った。

社会は多様性に向かっていると表面的には言われるが、この小説にある通り決してそうではなく、実は内向きになっている。社会が「普通」を要求する圧力は、年々強くなっているようにも思う。最後に赤ん坊が生まれて(もしくは妊娠で)終わる物語は小説に限らず非常に多く、僕は勝手にベビーエンドと内心呼んでいるのだが、社会が内向きになるにつれ、物語の世界も、ベビーエンドがさらに少しずつ増えている感触もある。

『コンビニ人間』解説より p.106(新潮文庫)

「普通でない人」を描く作品はたくさんあるけれど、『コンビニ人間』の主人公は、社会が求める「普通」から排除されるのではなく、ラディカルに脱出している(それもコンビニという、現代社会と文化を煮詰めたような場所で)のがおもしろかった。無意識にベビーエンドの物語にひきよせられる読者心理を軽く飛び越えている。すごい本を読んだ。

おなじように、ハッピーでもバッドでもない、けれど新しい読後感を抱いたのが松田青子の短編集『女が死ぬ』。

一冊ずつ、読み終わったらNotionで感想を書き留めるようにしてるんだけど、この本については「最高」とのみ書いてあった。言語化を放棄してる。

表題作も疾走感があって好きだけど、一番ツボだったのは「男性としての感性」という作品だった。フェミニズムの主張をものすごく感じるというわけではないが、(自分も当事者なのに感知してなかったり、都合よく解釈していた)微妙なジェンダーバイアスとかギャップを嫌みなく描いていてすごいと思った。

「ありがとう」はなくても生活できる

自分が考えたり行動したりするときの基盤となるスタイルが、人類全体でみると決してデフォルトではないと気づかされる。当たりまえにすべきこと、しなければならないことが、実は文化や制度によって後天的に身につけた思考様式や言動であることに気づく。そういうきっかけをくれるのが、文化人類学だと思う。

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』の主役は、マレーシア・ボルネオ島の少数民族プナンの人びと。

タイトルにもあるように、彼らの言語に感謝や謝罪の意味をあらわす言葉はない。たとえば日本人が「ありがとう」と言いたくなる場面で、一番近い意味を表す表現としては、「よい心がけだ」という、相手の精神性をほめる言い方になるという。感謝の気持ちを伝えること=コミュニケーションの大原則として幼少期から刷り込まれる文化に育った人間としては、なんかすこし偉そうだなと思ったりもする。

しかしそのような社会で育った人間とはちがって、プナンはその場で感謝の気持ちを伝えてコミュニケーションを終わらせることをしない。必ず何かしらの贈り物をして、何かをしてもらったことへのお礼をするという。

贈与がコミュニケーションの着火剤になることに関連して、彼らの徹底した平等主義が考察されている。プナンは部族のなかであらゆるモノを平等に分け合うことに執拗なまでにこだわる。これは長い狩猟採集生活でつちかった、サバイバルの大原則。究極的には、部族でもっとも偉大な人物は「たくさんのモノを所有している人」ではなく、「持っているものをすべて人にあげてしまう人=何も持っていない人」になるという。あらゆる外部のめぐみは部族ぜんたいに与えられたものだとみなすことが、贈与の連鎖と人間関係を澱みなく動かしている。

多くの場合「ありがとう」を言ってコミュニケーションを済ませてしまうことが多い身としては、この言葉にこれまで過剰な責任を負わせていたような気になった。あとよくドラマとかで「ありがとう」一言を言う場面に、ものすごい尺と演出を施してることがあるが、プナンの人がみたらなんだか滑稽に見えるのかなと思った。

また「ごめんなさい」という言葉に関連して、「反省」の概念についても興味深い一節があった。

直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められる。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。

狩猟採集などを基盤に発展した民族の時間意識には、もともと「○ヶ月後」とか「○年後」といった少し先の時間をあらわす概念がない(ということが、たしか今積んでる『時間の比較社会学』に書いてあった)。農耕ベースの民族の場合「●●の時期に種をまき、▲▲の季節に収穫する」というように、セグメントされた未来を考えることが作物を手に入れて生き残るために超重要になるが、外に出れば何かしらの収穫がある(ないときもある)狩猟採集民の場合は「未来」はただの「未来」であり、厳密な時間区分はない。

上に引用した一節を読んで、デフォルトモードとして常に脳内にある「反省」や「謝罪」の思考回路が、遠い祖先の生活形態に影響された結果なのかもしれない、ということがとてもおもしろいなと思った。

三体

久しぶりに大作(物理的な意味で)をひとそろいで買った。ハリポタシリーズ以来かもしれない。内容もさることながら、この分厚さの本を読み切ったことにまずすごい達成感がある(年始のお休み中に最終巻まで読み終わった)。とてもおもしろいので読んでると時間を忘れます。

個人的にはⅡの暗黒森林編が一番ぐっときた。SFなのにタイムマシン!近未来!みたいないわゆるSF的なものが主張しすぎない(もちろんそういうものや状況の描写はたくさんあるけど)ところがよかった。設定の根拠として語られる論理やエピソードが緻密で、もしかしたら数百年、数千年後は本当にこうなるのかもという、既視感に近い臨場感がかなりあった。

本筋としては、人類が生き残りをかけて宇宙で戦争したり地球でじたばたしたりしていて、それを高みから眺めている感じ。生まれては死んでいく数多の人間のミクロな目線をとらえながら、人類の興亡を鳥瞰している感覚が「火の鳥」を思い出させる。ミステリー要素や文化論的な記述も随所にはさまれ、というよりSFのフォーマットを使って人類を描くみたいな壮大なストーリーという雰囲気なので、SFファン以外にも読まれるといいなと思った。

早川書房のnoteで、翻訳者や書店員の方のいろんなお話も読めるのでおすすめ。

エッセイへの親近感

この前入ったカレー屋で黙々とスパイスカレーを食べていたら、一つむこうのテーブルにいた若い男女がどんな本が好きかという話をしていた。男の子は「事実が書いてある本しか読まない」らしく、虚構の物語である小説にはどうしても手が伸びない、というようなことを言っていた。女の子のほうは小説が好きなようで「え、なんで?」というような反応をしていた。あまり積極的に読んでいなかった小説を、パンデミックのなかで徐々に手に取る機会が増えた人間としては、どちらの考えかたもわかる気がする。

一方で、本当にごく最近までほとんど読まなかったエッセイというジャンル、前の二者の中間にあるような作品たちを、遅まきながら改めて読もうという気持ちになったのが昨年末だった。

きっかけはたぶんいろいろな本にあるのだけど、中でも永井宏の『サンライト』は転機だったなと思う。エッセイを書く人は女性が多いというイメージが自分の中になぜかあって、それがすっと覆された本でもある。たぶん、ずっと本棚にいつづける本になる。

作家が活動していた20世記後半の日本やロサンゼルスを舞台に、日々のできごとがつづられている。人との会話とか関係性についての、言葉になる寸前の感覚が伝わってくる気がした。冬の夜にあったかいふとんをかぶって、一章ずつ読むだけでしんしんと元気になった。あと何かしらのお店をやりたくなった。

プルーストを読む人について読む

プルースト『失われた時を求めて』は未読である。たぶんまだしばらく読まないかなと思う(根拠はない)。大作であるというイメージが先行して手に取れないでいるのだけど、時間がないからという理由が発端なら、隠遁生活を始めたりしないかぎりは1冊めも手に取れないかも。

それはさておき、今回読んだ本は『収容所のプルースト』という題名にひかれて、古本屋でゲットした。戦争の時代にソ連の強制収容所に入れられたポーランド人将校たちが、地獄を現実にしたような収容所生活で自我を失わないために、「失われた時を求めて」などの文学や自分たちの専門知識を仲間に講義していたというエピソードが基となっている(実話である)。

状況が極限すぎてそちらに意識が持っていかれそうになるのだけど、プルーストを愛読していたチャプスキという将校の、まるで昨日の晩まで読んでいたかのような朗読の様子に心が打たれる。ソ連の収容所、ポーランド人将校ときいたときにまず浮かんでくるのは「カティンの森」事件だけれど、著者はほんの一握りの幸運でその災厄を逃れている。ほとんどのポーランドの仲間は極寒の森で帰らぬ人となったが、もしチャプスキが同じ運命を辿っていたら、収容所でかのような人間的、文化的な営みが行われていたという事実も失われていただろう。

「失われた時を求めて」のような「長いこと」がある意味で最大の特徴になってるような大作を読むと、おそらく話の流れをたどることにばかり目がいってしまって、ささいな描写や作者の意図がこめられた表現などを見逃してしまうだろうから、その文章に親しんでいる人にとってどんな作品なのか、どんな価値をもつものなのかを知ることはとてもいいことだなと思った。


いつもは光文社古典新訳の棚だけ見て満足していた、最寄りの図書館で、久しぶりに奥のほうに行ってみた。そうしたら、外国文学の棚が想像以上に充実していてすごくびっくりした。いや、図書館だから当たり前か…

一度借りてしまうと次に返すタイミングでまた借りる、の無限ループに陥るので、しばらくは図書館と家との往復を楽しみたいと思います。

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