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2021年8月の読書記録

ふだんは遅くても月の前半に読書記録を書き上げてたのに、今回はいろいろ考えていたら9月も下旬にさしかかってしまった。まあ、読んだものの消化に時間がかかったということで…
本を読むことの楽しみは、一冊から未知の世界を知れるだけでなく過去に読んだ本とのつながりが見えてくることだと思っているのだけど、今回はそういうつながりがいくつも見えたので、大変だけど楽しかった。

目録(13冊)

地下世界をめぐる冒険(ウィル・ハント)
<責任>の生成 中動態と当事者研究(國分功一郎・熊谷晋一郎)
私たちにはことばが必要だ(イ・ミンギョン)
菜食主義者(ハン・ガン)
ピダハン(ダニエル・エヴェレット)
人生ミスっても自殺しないで、旅(諸隈元)
オリガ・モリソヴナの反語法(米原万里)
アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(100分de名著)
ドーナツを穴だけ残して食べる方法(大阪大学ショセキカプロジェクト)
ミラノ 霧の風景(須賀敦子)
複眼人(呉明益)
戦争と平和 5(トルストイ)
アサイラム・ピース(アンナ・カヴァン)

地下、道、迷うこと

地下世界をめぐる冒険』、古本屋で見つけてなんとなく買った本だけどとてもおもしろかった。世界には地下の洞窟や迷路を探検することに取り憑かれた人が大勢いるらしい。狂気と紙一重の静かな熱狂を感じる。

ずっと暗闇に閉じ込められている人間は、幻聴や幻視を感じるようになってやがて気がふれてしまう、みたいな話があるけれど「地下空間にどれくらいいられるか」を体当たりで検証している人が出てきたりする。怖い。

手元のライトしか明かりがない地下で迷子になるなんて絶対無理だけど、恐怖や疲労の極限状態と、それを脱したときの解放感に病みつきになってしまうのかもしれない。登山とか瞑想とか、サウナにも通じるものがあるのかな…

筆者は世界中のいろいろな場所の地下空間に踏み入っていく。ニューヨークの地下鉄をプラットフォームから降りて探検したり、ローマ時代からあるパリの地下納骨堂カタコンブで迷子になったり、アボリジニが先祖代々大切にしてきた儀式空間を見せてもらったり。地下1.5キロメートルの深部にあるNASAの研究機関に行って、古代から生息してるバクテリアの観察に立ち会ったりもしている。
自分は閉所恐怖症ではないのだけど、自分の真上に1.5キロの厚さの岩盤があるというのは、たしかに相当冷や汗ものの体験なのかもしれない。

とくに印象的だったのはアボリジニの聖地の話。アボリジニの世界には、一般的な道とは別に「ソングライン」という概念があるという。ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』かなにかにそんな話がでてきた覚えがある。

オーストラリアの大地に有史以前からいるさまざまな動物(エミューやワラビーや野犬など)はアボリジニの「祖先」とされていて、そうした動物が通ってきた道のことをソングラインという。それは道であると同時に、祖先から代々伝わる冒険物語でもあり、アボリジニはその上を歩くことによって祖先の聖なる旅を追走する。オーストラリア大陸の片方から反対側まで通じるソングラインもあるらしい。

都市で生活していて、かつ地図アプリがあれば本格的に「迷う」という体験はもうほとんどしなくなっているけれど、あるいはそれゆえに、迷うことそのものから受ける特異な効果はあると思う。

道に迷ったとき、私たちの脳は最大限に開かれ最大限の情報を吸収しようとする。方向感覚を失ったとき、海馬の神経細胞ニューロンは環境中の音や匂いや光景をすべて吸い上げ、方向感覚を取り戻す役に立ちそうなあらゆる情報を急いでつかみ取ろうとする。不安を覚えると同時に、想像力が並外れて活発になり、周囲の環境に敏感に反応する。(中略)暗い夜には光を求めて瞳孔が開くように、私たちは道に迷ったとき、世界に大きく感受性を開く

この部分を読んで、ヨーロッパに短期留学していたときの感覚をリアルに思い出した。
最初の頃は友だちも自由に使えるお金もなくて、ひたすら街なかを歩く毎日だったが、ちょうど秋のはじめに差し掛かった季節で、快晴がつづいて街は明るかった。プラタナスの並木道は手のひらほどの大きさの落ち葉でいっぱいで、日差しもなんだか日本とは違うように感じた。

ただ歩いているだけなのに、感覚器官がもう一つ増えたような変な感覚があった。まるで全身の毛穴が開いているかのような。
いま思えば、未知の場所でいろんな情報が一気に流れ込んでくる状況は、たとえ迷っていなくても、道に迷ってる状態と同じようなものなのかもしれない。

人生ミスっても旅には出れる

急に留学のときの感覚を思い出したのには、もう一つ理由があって、それは『人生ミスっても自殺しないで、旅』を読んだことだった。哲学者ヴィトゲンシュタインに心酔して7年も研究引きこもり生活を送っていた筆者が、なかばやけくそでヨーロッパへ旅に出たときの記録。旅の経緯や筆者の脳内で起こる議論はすごく真面目でシリアスなのに、文章がやたら面白くて声を出して笑ってしまう。

すでに故人であるヴィトゲンシュタインに勝手に「師事」してる(本来は私淑)時点ですごいおもしろいのに、本が出るきっかけのツイートがそれだけで波乱万丈ってかんじだ。

ヨーロッパ各地で出会ったたくさんの優しい人たち、華やかな観光名所、おいしいご飯。
反対に、無愛想で何を考えているかわからない人たち、イメージからひどく乖離した名所(迷所)、通じない言葉、よくわからない現地のシステム、まずいご飯、野宿…

振り幅の大きいできごと・物ごとの描写の合間に、ヴィトゲンシュタインが顔を出して意味深な言葉を残し、筆者が(脳内で)それに応答し、といったかんじで、一冊通してテンポのいい朗読劇をみているような気持ちになった。

ヴィトゲンシュタインは今まで読んだことがなかったけど、中には「ピダハン」にも通じるような言葉があったりして印象的だった。

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。 世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。 私は私の世界である。

なにより、アルプスのそこら辺で適当に飲んだ水がやたらおいしいとか、極端に親切な人と極端に不親切な人しかいないように感じられることとか、壊れるATM(が怖くてお金が引き出せなくなること)とか、とにかく先行きの予測不可能な感じが、ありありとイメージできるし「あああ〜〜」ってなる。旅に出たい。同じように、旅に出たい人に読んで「あああ〜〜」ってなってほしい。

上でふれたピダハンについては、おもしろすぎて別のnoteで感想も書いたので、よかったらそちらもどうぞ。

もう一冊、旅に出たくなる本。須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』。
須賀敦子は、先々月読んだA・タブッキの小説などを手がけたすばらしい翻訳家で、自身のエッセイも出している。先日行った青山ブックセンターでも須賀敦子特集をやっていて、うれしくなった。

『ミラノ』はイタリア滞在中に各地で出会った人々について綴ったエッセイ。静かにため息をつくような、ふだん想像する姿とはまた違う、しっとりしたイタリアを感じる。
旅にでて、道に迷ってみたりしたくなる一冊。

美しくも怖いカヴァンの本

つづいて、カヴァンの『アサイラム・ピース』。『氷』の印象が強烈すぎて、明るい作品ではないことは明らかなのについ買ってしまった。
こちらは短編集で、短い話だと5ページもいかないくらい。夢とうつつを行ったり来たりしているような、幻想的で美しいのにひたひた怖い一冊。

カヴァン自身が精神的な病とヘロイン中毒をずっと抱えていたこともあり、本人の経験が色濃く反映されているらしい。たしかに、素人が想像だけでこれを書くのは不可能だろうなと思うくらい、心の機微が生々しくとらえられている。本当に自身が苦しみながらみている世界を、(それが唯一の逃避の手段だったとしても)文学として表現しているという点で、この作家はやっぱりすごいと思う。今まさに苛まれている自分を、一歩引いて他人の目から見ているように書くのは、たぶんものすごく難しい。

言葉を与える

私たちにはことばが必要だ』という本を読み始めたその日に、小田急線で無差別刺傷事件が起こった。現場が実家にも自分の家にもかなり近かったのでひやりとしたが、それ上にショックだったのは「幸せそうな女を見るとむかつく」という、あまりに理不尽な犯人の言葉だった。

この本は、韓国で実際に起きた刺殺事件をきっかけに書かれている。繁華街の江南カンナム駅のトイレで、隠れていた男に若い女性が刺されて亡くなった事件だが、警察の取り調べに対し、犯人は「女たちが自分を無視しつづけたから」という理由で無差別に犯行に及んだと供述。
恥ずかしながら、私はこの本を読むまで事件のことを知らなかった。

本書は、目に見えるレベルから見えないレベルまでの性差別を実生活で受けている女性たちに、その差別的な言動に対抗するための言葉を共有することを目的としている。

社会の不条理を感情的に描写して同情を誘うだけで終わってしまうのではなく、実際に行動し、他者の行動をも変えようとする人々に言葉を与える、というアプローチが印象的だった。ヴィトゲンシュタインがいうように、言葉を知ることで個人の限界は変わっていく。

國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんによる『<責任>の生成』にもそんな言葉があった。
当事者研究を行う熊谷さんは、ASPや自閉スペクトラム症を抱える現代のマイノリティたちが不便を感じるのは、多数派向けの日常言語にアクセスできないことだという。ある事柄について言葉を発することに不便を感じないのであれば、自分はその領域では無自覚なマジョリティである可能性があるということ。

『私たちにはことばが必要だ』では、男性の言動に対してどう反応すべきか(あるいはそもそも反応しなくてよいのか)が具体的なふるまい方が挙げられている。
一応、無意識バイアスに関する研修を受けたりもしているものの、「あ、この反応は私もしちゃってるかも」という気づきがあった。言葉を知らないゆえに、マジョリティの考え方を内在化してしまっているというのは、自分にもたしかにあった。

日本の今の状況に対して思うところはたくさんあるけれど、大切なのは議論を他人の手に渡さないことだと、わたしは受け取った。本を書く人、権利団体、声の大きな著名人、そうした人が議論を戦わせている土俵の外で、「フェミニズム」の言葉が負わされているネガティブな意味合いに足を取られることのないようにしたい。
女であるからというだけで嫌な思いをしたり命の危険を感じたりするようなことはおかしい、と思うことがフェミニズムならば、わたしはたしかにフェミニストなのだと思う。

もちろんこの構図は男対女という単純な二項対立にとどまるものではないし、同じような状況はほかの差別、格差、その他の分断にもみられる。

韓国では江南の事件の後「#私は偶然生き残った」というスローガンのもとに個々の女性が集まり一つのムーブメントを起こした。それは小田急線の事件後の自分にはとくに響く言葉だったし、言葉を獲得していく試みをあきらめないように、持っていたい言葉だと思う。

「主義」の危うさ

ハン・ガンの『菜食主義者』は、一人の女性が肉食をやめて変質していくさまを、周囲の3人の視点から描いた作品。
韓国最高峰の文学賞である李箱イサン文学賞と、マン・ブッカー国際賞を受賞した。

ベジタリアンは、思想・宗教・環境保護などの観点から動物由来の食品を食べない人のことだが、この作品の中心人物はそのような「菜食主義者」のイメージからは少し離れている気がした。

というのも、その女性は自身のことを菜食主義者とかベジタリアンとは言っていない(はず)。その名前は、語り手の3人を含む周囲の人々が勝手につけたものなのだ。
彼女が肉を食べなくなったきっかけは彼女がみた夢だが、最終的には植物になりたいという願望に突き動かされて、普通の人生からどんどんコースを外れていくことになる。
それを、菜食を選択する者という意味で「菜食主義者」のレッテルを短絡的に貼ってしまう周囲の認識がちょっと怖いと思ってしまった。

なにか切実な望みや衝動があって特定の行動をとる人、あるいはとらない人を、「そういう(異常な)思想の人」というラベルだけ与えて満足するのは、危うい。
『<責任>の生成』にもあるような、多様性多様性と言いながら一部の特定の人を無意識に排除する、という状況を、現実的かつかなり生々しい形で描いている作品だと思う。

「妻」「女性」「普通の人間」というさまざまな立場を生きているだけで負わされ、性的欲求や出世願望のはけ口となることから逃れるために、女性は甘んじて「菜食主義者」のレッテルをかぶったのかもしれない。だとしたら、人間でないものになることを志向した挙句に女性がむかえた結末はやりきれなくて悲しい。
それでもこの小説は魅力的だ。文学でしか表現できない生々しさがあるし、残酷なのに気品がある。

クオンのこのシリーズは、装丁もシンプルながら凝っていて、どの本も丁寧に作られていることが伝わる。noteもおすすめです。

小さな人間の声をきく

少し前に、Twitterで流れてきた漫画に衝撃を受けた。「戦争は女の顔をしていない」というタイトルだった。調べたら、今も全話公開されていた(つい最近という気がしてたけど、2年も前のことだったのか…)

原作者のアレクシエーヴィチは、旧ソ連ウクライナ生まれの女性ジャーナリストで、現在もベラルーシの民主化運動の中心で発信を続けている。漫画の原作となった同名の作品で、ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞した。証言者への聞き書きをベースとするその手法も、その規模もかつてないものだったからだ。

今回は原著でなく「100分de名著」でダイジェスト的に読んだだけなのに、終始心が揺さぶられていた。印象的だったのは、当事者たちの無数の声がそのままテキストを構成していて、アレクシエーヴィチ自身の考えや感想はほとんど出てこないということ。
このあと同じ作家の『チェルノブイリの祈り』を読んでみたが、たしかにそのとおりだった。『戦争は女の顔をしていない』では第二次世界大戦に従軍した女性たちの、『チェルノブイリの祈り』では原発事故で凄惨な体験を強いられた市井の人々の、膨大な生の証言によって一つの作品を作っている。
100分de名著では、そうしたアレクシエーヴィチのスタイルが「ポリフォニー(多声音楽)」に例えて解説されている。

もう一つすごく納得感のあったのが「小さな人間」と「大文字の歴史」の話。
小さな人間とは、「社会の中で誰の注意も引かず、誰からも認められず、不当に虐げられ、社会の片隅でひっそり生きている人」のこと。一方「大文字の歴史」は理想の社会を建設しようとする国家の、イデオロギーに沿った既存の歴史のことであり、そこに「小さな人間」の声の入る余地はなかった。

アレクシエーヴィチは、過去の出来事を、一人ひとりの個人の「生」という視点で書いています。かけがえのない一回限りの生は、唯一、大文字のイデオロギーに対峙し、それを解体していくことができるものです。男性原理、男の言葉に支配された大文字の戦争を、個としての女性の語りで解体したのが、『戦争は女の顔をしていない』という作品なのです。
(「100分de名著」p.31)

この部分を読んだときに、ちょうど今読みすすめている『戦争と平和』にそのまま通じるものがあると感じた。ロシア軍とフランス軍がいつどこでどれだけの兵力をもって戦ったか、どんな結果がもたらされたか、という事実の連なりからなる大文字の歴史と、リアリティのある貴族や庶民=「小さな人間」の実生活、という対比がこの小説の根幹なのだと。アレクシエーヴィチが、ロシア文学の系統を引いているというのも納得。

アレクシエーヴィチは証言文学を「生きている文学」と呼ぶ。
『戦争は女の顔をしていない』は1985年に初版が発行されたが、ペレストロイカによる言論の自由の大幅な拡がりを経て、2004年に増補版が出た。初版当時は弾圧を恐れて語られなかった女性たちの言葉や、アレクシエーヴィチ自身が自己検閲で削った部分が、社会の変化をうけて日の目に当たることになったのだ。その意味でも「新しい文学」を形にしたアレクシエーヴィチには今後も注目していきたい。
原作も読まねば。

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