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古典は自分を写す鏡

お稽古希望の方がいらっしゃって、はじめて小鼓を構えたとき。
「あぁ~、世には本当にいろいろな人がいらっしゃるものだな~」と感心します。
鼓という「異物」が体に添うたとたんに、その人の持っているクセが、表にはっきり出てくるのです。

かつて国語の教科書で
「…死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう」
などという文章を読みました。
古典の能楽も、そのなかで演奏される小鼓も、ある完成された様式を持っています。
その前で生身の我々は
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな」
ということになってしまうわけです。

古典を利用して「どうも仕方ない」自分に権威の服を着せる。
能楽をやる人の目的は、そんなものだと思われているかもしれません。

しかし実際には、「はっきりとしっかりとした」ものと向き合うことで、自らの不安定さはむしろ露になります。
それらを他者と共有し、あるものは改善し、あるものはありのままに受け入れていくことができる。
それが古典を学び、人前で演じる効用ではないでしょうか。

でも、自分の不安定さと向き合い続けるのは、結構しんどいことでもあります。
そんなときに心を慰撫するような部分も能にはたくさんあるのですが、それはまた改めて。

(引用は小林秀雄の「無常という事」。現代の教科書ですから、新かなでした。)




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