田邊恭資

能楽小鼓方大倉流 国立能楽堂第七期(三役)研修修了 大倉源次郎に師事 新潟市出身 千葉…

田邊恭資

能楽小鼓方大倉流 国立能楽堂第七期(三役)研修修了 大倉源次郎に師事 新潟市出身 千葉県在住

最近の記事

続 能と拍手

 原則として能に拍手はいらない、と前回書きました。  ところが、困ったことがあります。  現代において能は、お客様に公演の切符を買って頂いたり、お稽古や講座に通っていただくことで催しが成り立っています。※1  そして、お弟子さんや講座の参加者さんには直接会ってお礼が言えるのですが、公演だけご覧になっている方には挨拶が出来ません。  昔は、能を観にくるのはお弟子さんとその関係者がほとんどだったので、それでも問題はなかったでしょう。  しかし、今は価値観が多様化して、以前なら

    • 能と拍手

       能と拍手。どのタイミングが良いか、それともしない方が良いのか。  結論から先に言うと、能には原則として拍手は必要ありません。    西洋演劇や音楽会にはカーテンコールがあり、歌舞伎には見得や引っ込みに掛け声を受ける間があります。これらは、お客様と演者との間にコミュニケーションが成立することを前提としています。  一方で、能には見所とやり取りするマナーが存在しません。囃子のお調べが済んで笛方が幕から姿をあらわし、太鼓方(大小物では大鼓方)が最後に退場するまで、誰一人ニコリ

      • 当たり前のこと

        亀井忠雄先生には、観念臭というものが微塵もなかった。 国立能楽堂の二階、第一稽古室が決まりのお部屋だった。 ノックして扉を開け、ご挨拶して先生の2メートルほど前に座る。 「今日は?」 「羽衣をお願い致し…」 「ヒーヤー、ヒー」 間髪入れず、一声が始まる。 あとはもう、行けるところまで行くしかないのだった。 「謡をうたえ」 「鼓は鳴らさなきゃ」 「掛け声」 「真っ直ぐ打て」 「人の舞台を見ろ」 「上手い人を追いかけて真似しろ」 「楽屋で謡本を見るな」 「稽古は手組じゃなく、

        • 道成寺を終えて④

          今まで三回にわけて、道成寺を勤めるにあたって考えたことを書いてきました。 特殊な能であると。 しかし、書いてきたことは全て、本当は他の能についても当てはまるのです。 第一回 たとえ汎用性のある囃子の手組であっても、この能のこの場面にはこれしかない、というギリギリを目指して稽古すべきこと。 第二回 どんな能でも、師匠を始めとした先人の跡を慕い、敬意と畏れを持って勤めるべきこと。 第三回 常に自分の寸法をいっぱいに使い、狂いのない間で一曲を打ち通すべきこと。 道成寺では、

        続 能と拍手

          道成寺を終えて③

          親指と人差し指をいっぱいに拡げて、物の寸法を測ったことはありますか? それぞれの指の長さと、関節と腱の柔軟性次第で、測れる距離は人によって違ってきます。 乱拍子を稽古し始めたとき、それまで習ってきた舞とあまりに違うので、どう取り組んで良いのか分かりませんでした。 それで、師匠の過去の録音を聴きながら、一緒に打って練習してみました。 同じだけの長さ声を掛け、間を取り、打ち込むことが出来れば、少なくとも及第点になるのではないかと考えたのです。 大バカでした。 親指と人差し指を

          道成寺を終えて③

          道成寺を終えて②

          近代の名人として名高い十四世喜多六平太師が道成寺を舞い納めたのは昭和10年、小鼓は大倉流の北村一郎師。 もう、それを観た方はいらっしゃいませんし、どのような申し合わせがなされたのかも伝わっていません。 「佐藤陽の会」のご依頼を頂いたとき、何かの間違いかと思いました。 喜多流のお披キでは、大倉流の小鼓は無いと思っていたからです。 前回、すべてが特注と書いた道成寺ですが、中でも特異なのは乱拍子という舞です。 大倉流の掛ケ声は長いので、喜多流の鋭い型とは合いにくいと聞いていまし

          道成寺を終えて②

          道成寺を終えて

          私の披キのとき、おシテ方から 「道成寺で間違えるということはありえない。すべてが習いなのだから」 とお聞きしました。 普通の能は、ほとんどが汎用性のあるパーツで構成されています。 脇能(神様がシテの能)の手附にはよく 「高砂同断」 と書いてあります。 「ここは高砂と同じことをやればよい。それ以上は言わなくても分かっているね?」 というわけです。 しかし、例えば高砂と嵐山の一声で比べた場合、鼓の手の寸法は同じですが、嵐山の方が謡の節が少ないのです。 そういったことを考えて、ハ

          道成寺を終えて

          原体験

          おかげさまでご好評を頂き、今年も出来ることになりました。 多くの方のご参加をお待ちしております。 私の「はじめてのお稽古」、というか能楽初体験について書いてみたいと思います。 私は新潟市の生まれで、家系に能楽愛好家は一切おらず、故郷で触れたことはありません。 大学進学で東京へ出まして、これも法学部という能とは関わりのないところでした。 それが新歓で声を掛けられ、先輩のK・Hさんが「田村キリ」の仕舞を舞って見せてくれたとき、なんだか面白そうだな、と思ったのです。 それから色々

          古典は自分を写す鏡

          お稽古希望の方がいらっしゃって、はじめて小鼓を構えたとき。 「あぁ~、世には本当にいろいろな人がいらっしゃるものだな~」と感心します。 鼓という「異物」が体に添うたとたんに、その人の持っているクセが、表にはっきり出てくるのです。 かつて国語の教科書で 「…死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう」 などという文章を読みました。 古典の能楽も、そのなかで演奏される小鼓も、ある完成された様式を持っています。 その前で生身の我々は

          古典は自分を写す鏡

          春になると

          桜が散って、すっかり暖かくなりました。 ようやく新革が打てる時期になったと喜んでいます。 小鼓は組み立て式の楽器で、胴と二枚の革はそれぞれ別の部品です。 胴は木をくり抜いたものを漆で補強してありますから、落として割れたとか火事で焼けたなどのアクシデントがなければ長持ちし、安土桃山時代のものも現代の舞台で普通に用いられています。 それに対して革は消耗品です。 小鼓の革は馬の腹皮ですが、かなり長命で大事に使えば100年以上持つと言われています。 しかし、江戸初期以前の物などに

          春になると

          謡を習っている方へ

          今回はややオタク的な投稿です。 途中ジャーゴンを多用しているので、分からない部分はドンドン飛ばして、最後だけをお読みください。 本日4月11日、「兼平」という能を勤めました。 そのなかの二ノ同(※1)は、独吟でも謡われる調子のいい部分です。 一句目の 「一念三千の。機を現して」 この部分は中ノリ(※2)になっています。 よって、弾みよく謡い出しなさい、という指示ではないかと考えられます。 乗っている船が順調に進んでいることをあらわし、あとで景色が次々に変化する様子を見せる

          謡を習っている方へ

          先立つもののお話

          能は気の長い楽しみです。 小鼓で言えば、まだ固く調子の甲高い新調の革を手に入れたら、少なくとも数年は打ち込んでだんだん柔らかくしていく。 それと足並みをそろえて、自分も上達する。 そんなところがあります。 ただ、長く続ける上で、一つ気になることがあるのではないでしょうか。 お金のことです。 能楽のお稽古は、会員制サークルのような性格があって、お月謝や会費については公開せず、直接に問い合わせないと分からない教室が多くなっています。 また、お金の話を公開でするのははしたない

          先立つもののお話

          小鼓のお稽古について②

          前回の投稿で、エトセトラが元はラテン語だとはじめて知りました。 「小鼓のお稽古とは、実は師の謡の声を聴きに行くこと」と書きましたが、ちょっと補足します。 まれに、歌舞伎が好きで鼓を打ってみたくなったので来ました、という方が見えます。 そのときには、「楽器としての扱い方はお教え出来ますが、音楽性は全然違いますよ」とまずはお話して、あとは常の通り高砂の待謡から体験していただくことにしています。 ピアニストなら、バッハもショパンもブーレーズも、ついでにジャズを弾いてもいい。

          小鼓のお稽古について②

          小鼓のお稽古について①

          ひな祭りが済んでもうかなり日がたちましたが、このたび能楽の五人囃子で合同ワークショップを開催することになりました。 6回のお稽古で一曲を仕上げて発表会、という短期集中プランです。 それに関連して、この機会に能楽小鼓のお稽古について、個人的に普段考えていることを少し書いてみたいと思います。 お稽古に見える方の動機は様々です。 すでに能の謡を習っていて拍子のことも知りたくなった、能や歌舞伎を見ていて興味を持った、美術館でお道具を見て素敵だと思った、とにかく一度アレをポンと

          小鼓のお稽古について①