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ルドン--秘密の花園

現代の状況を表すキーワードのひとつとしてVUCAがある。
Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧さ)の頭文字をとったワードだ。
僕は、この4つのキーワードから現代の社会環境以上に、自然だとか生物のことを思い浮かべてしまう。

僕らはいま、そういう社会環境になったことに慌てふためいている考えあるが、自然とか生物にとってはVUCAな状態がむしろデフォルトなのだろうと思ってみたりする。もちろん、それで僕自身がVUCAな環境を落ち着いてみていられるようになるということではないが。

VUCAなルドン

ところで、VUCAというキーワードは、今日「ルドン--秘密の花園」という展覧会で観てきた、オディロン・ルドンの絵にもぴったりだ。

《人物(黄色い花)》と名付けられた1900-1901年に制作された壁画作品には、人物の左手にハープらしきものが描かれている。ところが、このハープは上の方にいくとなぜか曖昧に消え去ってしまう。ハープだけじゃない。その上に描かれた木の幹も途中で、訳もなく消失する。そもそも画面上部のもやもやに至っては、木々の葉なのか、雲の浮かぶ空なのかさえ判然としない。

ルドンの絵では、そんなことはしょっちゅう起こる。いや、そもそも、さまざまな絵の登場要素が曖昧すぎるし、不確実で、何かわからないものだらけだ。

《蝶と花》という名のこの作品も、蝶なのか花なのか、わからない部分がある。

蝶が花を擬態しているということを割り引いても、ルドンの描くものはその多くが曖昧で不確実である。静止した絵だから変容こそしないが、複雑さを感じるものも少なくない。

変容しないとは言ったが、この絵になると、変容の様を描いていると言えるのかもしれない。

これは『起源』と題された画集の「表紙=扉絵」。
この画集は『種の起源』で知られるチャールズ・ダーウィンが亡くなったばかり。進化論も含めた生物学に強い関心を示したルドンが『起源』と名付けた画集で進化論と無関係なテーマを描くとは思えない。この絵は、ルドンなりの生物の変容=進化を描いているのではないだろうか? もちろん、曖昧で不確実性の高いルドンの絵を前に確実なことは言えないが。

目に見えぬ世界は存在しないのか?

ルドンには1890年代までの黒の時代と、1900年以降の色彩の時代があると言われている。今日展覧会に行って、1900年以前でも色彩のある作品をルドンが制作していたことはわかったが、とはいえ、公に作品として発表していたものの多くは、黒の作品だったようだ。

先の『起源』の表紙と同様、黒の時代に位置付けられる『陪審員』という本の挿絵として制作された《Ⅴ.目に見えぬ世界は存在しないのか?》という作品がある。こんな作品だ。

展覧会カタログによると、この作品は、ベルギーの法律家であり作家のエドモン・ピカールの『陪審員』の挿絵として1887年に制作されたものであるが、実は「1880年頃に描かれた木炭の素描」を元にしたものであったらしい。「たわわに実ったブドウの房状に密集した浮遊する顔は、黒い影とつながっているが、原画で確認すると、左下のシルエットは、顔であることがわかる」という。逆に言えば、この作品になると、黒い影の部分がいったい何なのかは、曖昧で不確実すぎて、もはやわからない。

ひとつ前の「形象と存在の曖昧な輪郭」という投稿で、ルドンが自身の作品を二重書き(パリンプセスト)していた例を紹介したが、この作品も上書きというよりは、素描からよりしっかりした作品へという形ながらイメージの書き換えが行われている。

同様の例は別でも指摘されている。

これは先の『起源』という画集中の《不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた》という作品の一部である。
この絵と同じモティーフがそれとはまるで印象の異なる《グラン・ブーケ》というその名の通り、花瓶にさした花束を大きく描いた作品の一部に見つかるという。これがその部分だ。

《不恰好なポリープ…》を逆さにして、目や鼻、口を取り去ると、その形態はよく似ている。

《不恰好なポリープ…》では眼球が位置する場所、《グラン・ブーケ》では萼状の形態の内側には、カンヴァスの地の上に直に加えられた粉状のパステルが目立つ。あくまで仮説ではあるが、ルドンはここに、目や顔のある花を紛れ込ませようとして、ドムシー男爵がこれ。止めたのかもしれない。

《グラン・ブーケ》はドムシー男爵が自身の城の食堂を飾るために、ルドンに描かせた作品だ。
今回の展覧会では、他の15点の装飾画とともに飾られていた際の配置を再現していたりもする。

最初のハープが消失する絵もその15点のうちの1枚だ。黒い部分は室内にあるべき、窓や暖炉などにあたる部分だ。

カタログでは、その絵の注文主が花に目鼻を描こうとするルドンを制したのでは?という仮説が立てられているが、事の真偽はともかく、そもそも《グラン・ブーケ》という作品自体、花束を描くには大きすぎるサイズ感も含めて、ルドン特有の曖昧で不確実で、しかも、この作品においては、複雑さも伴って、花瓶の花束を描いたのか、宇宙の創生のイメージでも描こうとしたのか曖昧なのだ。

自然界のイメージにせよ、潜在的イメージにせよ、ルドンの描くイメージは、知覚された対象であると同時に知覚する精神に属するなにものかである。外的世界と精神が重なり合う境界にとどまり続ける。

と、ダリオ・ガンボーニが『潜在的イメージ』で書いているように、ルドンの描く絵では精神的なイメージが外的な世界なそれと境界も曖昧に混ざりあって、何かわからない不確実で複雑な様相を呈している。それは画面上、とりあえず静止した形で描かれてはいるものの、おそらく落ち着きなく蠢いて変容し続けているだろうと想像するに難くない。
VUCAきわまりないのがルドンだ。

けれど、このルドンが幻視したイメージは、彼特有のものだったかというと、そうでもないように思える。もちろん、こんな風にはっきりとVUCAな世界の様相を描きだせたのは、彼の才能にほかならない。ただし、幻想を見ているという点では、もともとVUCAな自然や人間も含めた生物の世界をそれとは別物であるかのように見てしまうこと自体、人間の妄想であるわけで、むしろ、こちらの方がよほど幻想だ。

人間の目に見えているように見える世界だけが存在しているわけではない。物理的に見える可視光線の範囲や、目に見える大きさの話だけでなく、ユクスキュルのいう環世界のような意味でも人間には人間に見えるようにしか世界は見えないが、それが世界そのもののあり方ではないのは明らかだ。

エルネスト・グラッシの『形象の力』冒頭のこんな一文を思いだす。

人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。

人間というのは、欲深いもので見えないものもなんとか見ようとする。科学の力によってでも、芸術的な力によってでも。
いずれの方法をとろうと、目に見えぬ世界を見ようとすれば、世界は曖昧で不確実になる。そのVUCAな姿をありのまま受け入れられるかどうか。貪欲に欲を満たそうとすれば、ルドンのように曖昧なイメージを受け入れるしかないのだろうも思った。

さて、次はブリューゲル展を観に行こう。

#ルドン #芸術 #VUCA #アート

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