正しさを前提としない

世の中には2つのタイプがいる。
正しさを前提として議論をする人と、決まった正しさなどはないからその前提で議論の中で何を選択するかを決めようとする人と。

僕は明らかに後者だ。
正しさというものを前提にしようと思うことはほとんどない。何かを決めなくてはいけないのだとしたら、その取り決めに影響がある人、責任を持つ人で話し合って決めればよいと思ってるし、話し合って決めるしかないと思ってる。その話し合いにおいて基準になるような正しさなんてないと思っている。

それは多神教の国の人だからとか言ってみたいが、残念ながら多神教の国にも何か明らかな正しさがあると仮定して自分の議論の正しさを主張する人がいる。神以外に正しさを求めているとしたら、一体なににその根拠を認めているのだろうか?と不思議に思う。

ルールは正しくなさだけを明示する

もちろん、僕も社会にはいろんなルールが存在していて、そのルールにおいて正しくない行為が存在することは理解している。
けれど、それは取り決めであって、取り決めたという前提があって、何が正しくないかを判断する基準でしかない。多くのルールは、何が正しくないかを示すもので、何が正しいかを明確に定めてはいないのではないかと思う。

例えば、ゴミを出す日は決まっているが、それも出してはいけない日(正しくない日)を明確にしたいだけのものだ。決められた日通りに出したからってそれはルール通りという正しさはあれど、それ以上の普遍的な正しさを持つものではない。

犯罪を罰するような法でさえ同様で、法を犯せば、当然正しくないが、法を守ったからといって正しいわけではない。

科学における自然法則だって、大して変わらない。あるものと別のあるものの間に一定の関係があることを示しているだけで、その法則とは別の関係が起こるという仮定は正しくないとはいえるが、法則通りの関係そのものが生じることが正しいわけではない。
物体が重力に従って、上から下へと落下したからといって、それで何が正しいのか?という話だ。

考えること、対話することを端折らない

結局、何を言いたいかといえば、何か外部に正しさをあることをアテにして、自分自身で考えて答えを導くことをサボったり、人と対話をして何か合意を得るプロセスを端折ったりする姿勢は良くないということだ。
あるいは、何か外部に正しさがあることを前提に、他人の意見を否定したりするのも良くない。

何にせよ、これからの時代、もっと自分自身の責任において判断をする力をもつ必要があるということだ。普通の判断は、AIやロボットの役目になって人間はそんなことをする役割からはお払い箱になる。

多くの思考の場、議論の場において、求められるのは取り決めであり、判断であって、正しさなどではない。
正しくないこと、間違った判断は避けるべきだが、それを避けるためには、どういうルールにおいて、どういう判断基準において、何を正しくないとするかを、自分で考えるたり、関係者間で話し合うことこそが必要だ。その際、ありもしない絶対的な正しさのような幻想に頼っても仕方がない。

けれど、決して少なからぬ場で、ありもしない正しさを巡っての不毛な対立が起きている。
たいていは、お互いに自分以外の外に正しさを仮定してそれに従って、自分の主張の正しさを言おうとするから、議論にはなり得ない。双方の論拠とする正しさなど、ともに存在しないのだから、そんなものがまともな議論になるはずはない。
そういうことにもっと、みんな、気づいて然るべきだと思うのだけれど、これまでの教育における「正解主義」みたいなものがよほど強力なのか、ただ単に自ら考えることを避けたい、サボりたいだけなのか、とにかく無意味な議論を避けようとも止めようとしない。

外部の抽象ではなく、自分のリアルで

本当に必要なのは、双方が自分の主張のリアルな背景を明らかにして話し合うことのはずだ。リアルなものを見せなければ互いに人としての理解をした上で話すことなどできるはずがない。
ありもしない抽象的な根拠に、相手が共感したり心動かしたりするのを期待するのはおかしい。その期待がないのに、なぜ、人は抽象的な根拠の主張をアホみたいに続けるのだろうか。

もっと自分のリアルな状況やリアルな考えや感情を相手に伝え、共感は得られないまでも、相手にも想像しやいリアルな像をベースに会話を進めるようにしよう。
ここ最近、繰り返し書いているように、人は相手が話す文脈をイメージできなければ話の内容を理解できない。抽象的な話より、リアルな話のほうが話の背景、文脈は聞いている側も想像しやすいはず。
相手に理解してもらった上でなければ、議論は平行線のままになりやすい。平行線を少しずつでも近づけていきたければ、抽象的な正解などを想定した根拠のない話をするより、根拠など存在しないリアルなシーンをできるだけ、そのままイメージしてもらえるように話をすることが必要だ。

自分の頭で考え、人と話す力

今後、企業に勤めて働き続けるのは普通ではなくなり、フリーランスや副業を持った形で働くことのほうが普通になり、企業内に残る人も、会社の内外関わりなく、同じ会社で働く人より外部の人と仕事をする時代が来るにあたって、何らかの根拠にすがる対話や仕事の進め方ができる機会はより少なくなるだろう。
そこでは、外部に正しさを求めてすがる姿勢でなく、自分の頭で仮説を立てて、それを自分の言葉で、いろんな立場の仲間と話しながら、いっしよにいろんな取り決め、判断を行なっていく力が求められるようになる。

これまでそういう頭の使い方や会話、議論の仕方をしてこなかった人は大変だ。でも、いまからなら、ぜんぜん遅くない。何か正解があるという、ありもしない前提は早々に捨てて、都度、自分の考えを自分が置かれた状況において展開できるようにし、それを口でちゃんと説明する練習をしておいた方がよいだろう。その程度の日常的な創造性は、これからはほぼ万人に求められる基礎スキルになっていくだろうから。

#コラム #ビジネス #議論 #対話

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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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コメント1件

私は昔、前者だったかも。最近は、後者の方が人間らしいと言うか生きることに深みを持たせる気がしてます。
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