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徴候と予感

僕の仕事は、ドキュメントに残らない。

いや、普通ならコンサルティングの人たちがやりそうな、企業の課題を、コンサルティングとは違うアプローチで解決することを目指すという仕事柄、それなりにちゃんとドキュメントはつくる。

でも、そこに僕の仕事があるかというと、違う。

一番の核になる部分は、そこには残らない。なぜなら、そこに書かれたことが形成される過程そのものを形成するところに僕の仕事の本質はあると思うから。その過程を制御しつつ、適度にノイズも取り込みながら、ドキュメントに書かれることになる解決のための方針と戦略が生まれてくるようにマネージメント、ファシリテートするのが、僕の仕事の大事な部分だと思っている。

過程のデザインもするから、僕の仕事がデザインかというと違うと思い。過程のデザインは、それこそ計画書という形でドキュメントに残している。しかし、そのドキュメントに残っている部分が核ではないことを僕は知っている。

そういうドキュメントのように固定化できるところに残念ながら、僕の仕事はないようだ。
「形成」そのものを司るという動的な仕事が僕の領域なのだろう。それはある程度までは計画や方法論に落とせたとしても、肝心な部分は、形式化するのがむずかしいし、形式化しても意味がない。
それゆえ、形式から漏れてしまう部分を、熟練を要するような職人的なもので行う必要は少なからずある。どうしても、その部分をほかの人に伝授するのは困難だ。

その意味で、精神分析家である中井久夫さんの『徴候・記憶・外傷』のなかのこんな一節を読んだときには、思わず心の中で深く頷いた。

精緻な「意識的方法論」に拠る研究は堂々たる正面玄関を持ちながら、その向う側が意外に貧しい場合も皆無ではない。これは方法論に拠る人の問題でなく、方法論に拠るということ自体の持つ欠陥である。それは事後的追想あるいは批評にこそ適し批評の有力な武器であるな発見に適しない。

そう。方法論だけで発見しようとしてもむずかしい。

もちろん「方法論」自体、悪いものではないのは当然だけれど、やはり、ここに書かれているように発見には向かないという欠陥はある。そのことを欠陥を理解せずに方法論に「拠ろう」とすると、結果は貧しくしかならない。

観念は生き物であって、鮮度を失わずに俎の上にのせることにはある職人的熟練を要するのである。

と、中井さんは書いている。
そう。発見のためには、方法論とは別に、生物である「観念」を鮮度を失わずに扱える必要がある。

観念を感じることと匂いを感じることの類似を中井さんは論じている。
両者が似ている点の1つ目は、どちらもしばらく経つと消えてなくなってしまう儚さを持っていることだ。匂いはしばらくすると鼻が慣れて、感じられなくなる。それと同様に、一度思い浮かんだ観念=イメージも元のまま固定しておくとこはできず、固定しようとすれば似て非なる視覚映像や言語化された概念のように、観念の大事な部分を失った状態で形式化するしかない。

もう1つの類似は、どちらも主体的に感じられるようにできる類のものではないということだ。匂いも観念も不意打ちのようにやってくる。いつ来るかもコントロールできず、しかも、いつまでも持続するわけではないものに対していかに限られた時間で自分で料理可能な状態に持っていけるか。

この観念的なものを相手に、方法論的なものがうまく介在する余地がないのは明らかではないだろうか。

中井さんは「世界は私にとって徴候の明滅するところである」と書いているが、徴候とはひとつの観念の形だろう。現れては消える観念だからこそ、何かしらの徴候は現れては消えて、明滅する。
徴候は、確固として目の前に現前するものとは異なる儚さをもった観念である。

その徴候がある世界について、中井さんはこう書いている。

それはいまだないものを予告している世界であるが、眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。これをプレ世界というならば、ここにおいては、もっともとおく、もっともかすかなもの、存在の地平線に明滅しているものほど、重大な価値と意味とを有するものではないだろうか。

徴候が存在する世界、「いまだないものを予告している」プレ世界にこそ、発見の機会はある。だからこそ、観念をうまく操る手段をもたなければ発見になど、辿りつくはずもない。方法論はその徴候や、さらにそれよりも感性的な予感といったものが存在するプレ世界という不確かな世界と付き合うことができなければ、何の役にも立たない。そうした世界と付き合えて、徴候や予感といったものを料理する腕があってはじめて、レシピとしての方法論が機能するのだ。

目の前に存在し、わかっているもの
目の前に存在しているものから何かが起こりそうなことは感じるが、それが何かははっきりとはわからないもの(徴候)
目の前に存在しないが、あるものがやがて現れるかもしれないという気配(予感)

と、こんな区分が存在するだろうか。中井さんは、徴候と予感をこう分けている。

徴候とは、必ず何かについての徴候である。それが何かはいうことができなくても、純粋徴候、何の徴候でもない徴候はありえない。これに対して予感というものは、これもほとんど定義上であるが、何かをはっきり徴候することはありえない。それはまだ存在していない。しかし、それはまさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。

当然、徴候にしろ、予感にしろ、明確に定まった意味も価値もない状態である。しかし、こうした徴候や予感を自分自身の力で扱えない限り、いまだ存在しないものの発見に辿りつくすべはない。

僕が仕事で、さまざまな方法論を組み合わせてプロセスを設計するにしろ、次々に、この徴候や予感が生じる土壌を用意しているだけであって、それ以上に、個々の方法論やプロセスそのものが何かをしてくれるわけではない。あくまでその土壌から浮かびあがる徴候やら予感を素材に、いまだ存在しないものの形成するのは、方法論とは無関係な職人的仕事のほうだ。

それには徴候や予感のなかにまだ認められていない不確かな意味や価値を自分自身で読みとくセンスが必要になる。つまり、それは意味や価値の創造のセンスだ。

いまだ、ちゃんと明確には意味や価値が確定していない徴候や予感といった観念の意味や価値を独自に読みとり、その不確定な意味や価値の連なりを編集していくことで、いまだ存在していなかった意味や価値を発見する。
それはドキュメントにも、方法論にもならない仕事である。

いまだ存在しないものについて議論していくこと。いまだ意味や価値が認められていないものを想像し、そのことについて人に紹介し理解してもらうこと。デザインやイノベーションに関わる仕事をしていれば、そういう作業からは逃れられない。不確かな徴候や予感への向き合い方ができないのであれば、発見やイノベーションにつながる仕事など、できるはずはないだろう。
どんなに方法論ばかりに頼って、作業を進めたとしても。

自分自身の感性でしっかりと徴候や予感に向きあえるようになることが大事な基礎力なのだと思っている。

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