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ドラクロワの屍体

ドラクロワが好きだ。
あの何とも猥雑な熱気に満ちた匂いをプンプンと漂わせる作品に惹かれる。
昨日、紹介したパウル・クレーのことが頭で好きだとすれば、ドラクロワは生理的に好きだと言える。

そんなドラクロワの企画展がパリのルーヴル美術館で開催されていたので観た。

ドラクロワの作品をこれだけ集中して観たのははじめての体験だ。
結論から言えば、最高に面白かった。

ドラクロワを一言で言えば屍体愛好家ではないかと思う。
例えば、有名な「民衆を導く自由の女神」だって、そうだ。

タイトルどおりに民衆を導く自由の女神の足元には、屍体が転がっている。

画家が描きたいのは、女神よりも屍体の方ではないかとさえ感じる。

マリオ・プラーツは、『肉体と死と悪魔—ロマンティック・アゴニー』で、次のように書いている。

『キオス島の虐殺』の迫害を受ける病める女たち、馬に裸のまま繋がれた美しい囚われの女。

ここで言及される「キオス島の虐殺」とは、こんな絵だ。

今回の企画展ではまさに先の「民衆を導く自由の女神」と並んで展示されていた。
見ればわかるとおり、この作品でも屍体が転がっている。

死んだ母親の屍体にしがみつく男児。

若い男の屍体を支える若い女性。

まさに屍体を描くために絵を描いているようにさえ、感じられる。
けれど、ドラクロワの絵の魅力はこの血生臭さにある。

プラーツの先の引用の続きはこうだ。

ちょうどサドが描いている饗宴−−そこには芸術の香りは露程も感じられないが−−のひとつのように、サルダナパロスの婚礼と死出の床で虐殺される美しい寵妃たち。

ここで言及されるのは、「サルダナパールの死」という、今回の企画展には展示されず、通常どおりドゥノン翼の2階(フランス流にいえば1階)に展示されていた僕の好きな絵だ。

またしても屍体、そして、エロティックで猥雑な印象が充満している。このダイナミックさと荒々しい筆致は、前者をルーベンスから、後者をレンブラントから引き継いでいるように感じるのは、僕だけだろうか。

この絵の習作やデッサンが今回は展示されていたが、その時点から、完成品にある雰囲気がすでにある。

習作においては、画面右上の暗い煙った空間や、右下の女を後ろ手に捕まえた男の背後など、習作だからというのもあるが、不定形で不気味な形になりきらない形象が存在しているように見える。

ドラクロワは言う。「美しいタブローに、ひとつの定まった思想しか見出さない人は不幸である。また、想像力豊かな人に対して、完成されたもの以外には、なにも提示しえないようなタブローも不幸である。タブローの価値は、定義しえないもの、正確さから逃れてゆくもののなかにこそある。要するに、色彩と線に魂を込めたものが、魂に語りかけるのだ」。

と書くのは『潜在的イメージ』のダリオ・ガンボーニだ。
ガンボーニは、こう書きながら、今回展示されていたのは、別の「サルダナパールの死」のデッサンを参照する。
こういうものだ。

ここまで見てきた「サルダナパールの死」へとつながるイメージの断片がここには見出せるが、それは完成品を知っている眼が見る思い込みを含んだイメージだ。本来、このデッサンにあるものは、もっと自由に、ほかのイメージにも結実する可能性をもった不定形なイメージであるはずた。

ガンボーニは、こう書いている。

例として《サルダナパールの死》の習作を見よう。素早く引かれた描線が支離滅裂に行き交い、行きつ戻りつしながら、ひとつの図像から別の図像へと飛躍する一方で、人物とその眼差しが交差し、重なり合って、全体として幻惑的な一体性を感じることができるだろう。残虐な暴君と茫然自失の従者、殺戮の犠牲となった女性の捩れた肢体、すべての要素が乱雑な描線によって一体化している。観る者は、一瞬して、ここで起こっている出来事が、道徳観念を踏みにじる暴力と無政府状態(アナーキー)であると理解することだろう。1825年のサロンにこの完成作が展示されたとき、即座に激しい非難が浴びせられたのもうなずけるところである。

ガンボーニが言うことをそのまま鵜呑みにすれば、完成作への激しい非難を浴びせさせることになる要因がすでに、このデッサンの中にあることになる。だとすれば、それは具体的な形象へと結実したイメージというよりも、具体的で特定可能なイメージは提供しないまでも観る者に、暴力的で幻惑的な一体性を感じとらせるような生成する、動詞的な意味でのゲシュタルトということになる。

そう考えたとき、ドラクロワの狙いは、1つ前の「眼にみえるものを再現するのではなく、みえるようにする」で書いたパウル・クレーの試みとそう遠くないところにあると思えてくる。一見しただけではまるで似ているところのない、ドラクロワとクレーという2人の画家の作品に同じように僕が惹かれるのは、この2人の画家の形象形成の考え方の背後にある有機的というか、生命的/屍体的なダイナミックさをもった造形性ゆえではないかと思える。

だから、ドラクロワが描く、こんな屍体のない、一見穏やかにみえる作品を前にするときでも、そわそわ落ち着かなくなるのではないだろうか。

今回観たなかで、特にいいなと感じたのが、この作品だ。
「アルジェの女たち」と呼ばれる作品に結実する、この習作にあるのは、屍体は眼にみえるかたちでは存在しないまでも、死臭と背中合わせのエロティックさではないかと思える。

バタイユが書く、こんな言葉。『エロティシズムの歴史』の中の一節だが、この言葉ほど、ドラクロワの一連の作品を思い起こさせるものはない。

とにかく、死の「否定」は、原始人の複合的感情のなかに与えられている。単に生滅への怖れに見合う形で与えられているばかりか、生命の普遍的発酵のなかにぞっとするような兆候を見せている自然力へと、死がわれわれを連れ戻すかぎりにおいても、与えられているのである。

死の否定とエロティシズムは背中合わせである。
完成品も含め、「アルジェの女たち」を観るとき、僕が感じるのは、そうした死の否定やエロティシズムの生起につながる、ドラクロワが「タブローの価値」と呼んだ「定義しえないもの、正確さから逃れてゆくもの」の不確かな、けれど、力強いイメージだ。

そんなドラクロワの作品を一気に観ることができたのは、この旅の収穫のひとつだった。

#コラム #エッセイ #アート #美術 #旅行

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