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偶然

偶然というものの評価にも2つある。

イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウスによる『アンフォルム 無形なものの辞典』は、そのことを教えてくれた。

偶然のひとつの評価の方向性。
それは、シュルレアリスムの提唱者である詩人アンドレ・ブルトンが「客観的偶然」と呼んだものだという。

「客観的偶然」はナジャを亡霊的、魔術的人物と同定し、偶然を欲望の成就と同定され、したがって偶然を、愛、および現実との自由意志的な関係に従属させるのだ。

ここに登場するナジャは、ブルトンの自伝的小説と知られる作品『ナジャ』に登場するブルトンを魅了する同名の女性だ。

ナジャは、ブルトンに対して謎めいて詩的な行動をしてみせる。
このナジャのみせる偶然を、ブルトンはポジティブな自由意志(それはシュルレアリスムが探求したものそのものでもある)と結びつける。
それは偶然生まれてくるかもしれないが、愛に、意味あるものに結びついていく。

ようするに、その偶然は意味をなす

一方で、それとは正反対の偶然がある。
こちらは意味を破壊するタイプの偶然だ。
この偶然はバタイユに由来する。

傷の、プンクトゥムの効果によって、このテュケーという観念は、ブルトンの「客観的偶然」とは異なったものとなる。(中略)この点でテュケーは、〔ブルトンの概念よりも〕はるかに、バタイユの『眼球譚』の自動機械的構造に関係している。機械にも似た『眼球譚』の構造はまぎれもなく傷として形づくられた様々な遭遇を−−愛ではなく死の諸関係を−−生産する。

先のブルトンの客観的偶然が自分とは異なる人物によって詩的に生み出され、そこに愛が感じられるのとは正反対に、バタイユ的であり、アリストテレスに基づくテュケーという言葉で表現される偶然の方は、機械が自動的に産み出すこの上なく不気味さを感じさせる類のものだ。それは既存の価値観を破壊するような、人では決して産み出さないようなズレた組み合わせを機械的な偶然によって産み出してしまう。その偶然は人的な幸福をもたらすのとは反対に、人を震撼させるような不気味さを人間に対してまさに機械的な唐突さをもって突きつけてくる。
人間にとってはきわめてタチの悪い、人でなしの偶然だ。

このことに関連した話を、著者らは、ロラン・バルトの写真に関する議論に紐づける。
バルトが、数日前に死んだ母親がまだ子供だった頃の写真を見ながら語る、こんな話の文脈に。

「写真はポーズの絶対過去(不定過去)を示すことによって、死を未来形で私に告げているのだ。私を突き刺すもの、それはこの両価性の発見である。子どもだった母の写真を前にして、私はこう思う。彼女は死ぬことになる。私はウィニコットの精神病者のように、すでに起こってしまった破局に今、戦慄する。被写体がすでに死んでいてもいなくても、写真はすべて、破局なのである」。

子供の頃の母親の姿を、写真はすでに母親が死んだという事実とともに、その子供自身の死へと結びつけてしまう。
それは、カメラという機械だからこそうみだせる偶然の不気味さだといえるだろう。機械がもたらす「冷酷」をも超えた、文字通り人でなしの不気味さ。

そして、この写真のもつ機能が、先の引用にあった「傷の、プンクトゥムの」というものそのものなのだ。

こうして死の報せ(「世界中を駆けめぐって、今日的問題をとらえることに余念のない、あの若い写真家たちは、みな、自分が〈死〉の代理人であることを知らない」)でもって見る者を「突き刺す」という写真の能力に、バルトはプンクトゥムという名を与える。

機械の産む偶然は、人の心など知ることなく、突然、人を「突き刺す」。けれど、それは機械が偶然を産んだときに生じるものではなく、機械そのものがはじめから持っているものだ。

ある意味、現代の僕らがAIに感じる不気味さもこの機械の「突き刺す」能力に由来するのではないだろうか。AIが人間も想定しうるような形で人間を攻撃することが怖いのではない。人間が想定しないような、意味を超えた無意味の直撃を仕掛けうる可能性をもっているから恐ろしいのだと思う。
その意味で、そん不気味さをもったAIは、新たなプンクトゥムである。

ちゃんと考えれば気づくのは、この機械は必ずしも、人間がつくった機械に限らない。人間の意図とは無関係に、自動的に生産を続けるという点では、人工の機械などよりはるかに自然や生命という機械のほうがはるかに暴力的に無意味な生産をやめない類のものだ。
機械の生産性が時に偶然に、人間の意味の社会を抉る。機械の生産は基本的にすべての差異を消し去る方向のエントロピーとして働く。消費性。これを受け入れるクッションとなっていたのが、ヨーロッパに中世まであったカーニヴァルのような祝祭なのだと思う。

この機械的な偶然。
この機能は、先の引用で指摘されていたようにバタイユの倒錯的にエロティックな小説『眼球譚』がもつ機能であることを見いだしているのもバルトだったりする。

長いが、引用する。

バタイユが1926年に書いたこのポルノ小説は、倒錯した幻想と束縛を解かれた性的想像力の沈殿物に充ちているが、にもかかわらずバルトは、それらを主題論的ないし「造形外的」に読むことを拒絶し、この著作を特に構造主義的な観点から説明しようとした。バルトは次のように宣言する。この物語は、一群の人物とその武勲を物語ったものではなく、ある物体−−目−−の物語である。その物体の諸特徴は、ある組み合わせを生み出す。テクストの織りものは、言語の水準においても、出来事の次元においても、この組み合わせから出発して編まれている。というのも、この物体が産み出す格子は、形状の軸(目を太陽、卵、睾丸へと順に結びつける球形の連鎖)と、流体の軸が(涙から卵黄へ、そしてそこから精液へといたる一連の液体)から構築されているからである。バルトは次のように議論を進める。バタイユが用いる正確な諸イメージ−−たとえば太陽を、目や卵黄という隠喩で語り、「ぶよぶよした輝き」と描写するときのような−−が産み出され、「空の女房的な液体」という文がひねり出されるのは、この2つの軸が複数の点で交差するからである。バタイユの著書を一種の構造主義的機械として記述することで、バルトは一方では、この書物の戦略を、詩的イメージを偶発的な遭遇の結果として定義するようなシュルレアリスム的な偶然の理念にはっきり対立させている。

格子の構造が機械的に意味が無意味に腐敗し崩れ落ちていきそうになる言葉の連鎖を溢れ出させる。その機械的な液状化した言葉の織りなす様が、この小説のエロティックな雰囲気をつくりだしている。と同時に、通常の意味での性的意味を崩壊させるのも、この格子がもたらす言葉の横滑り的な展開でもある。この小説がどこまでも倒錯的なのは、それが人間の欲望というより、格子機械が産み出すものなのだからだろう。

この人間にとっては破滅的な無意味へと誘う力。僕はこれに惹かれてしまう。

そう。想像を超えた未来を生み出すセレンディピティ的な偶然がもてはやされる昨今。僕が惹かれるのは、残念ながら、そういう意味のあるものより、このバタイユが見つめて目を離さない、意味を崩壊に導くほうの偶然だ。

その力のほうが、どんな意味のあるものよりもはるかに根源的なものだと思うから。エントロピー万歳だ。

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