見出し画像

搾取の逆転――聖フランチェスコは着物をみずから差し出した

みずからの欲を満たすために、ほかの誰かのものを奪いとる。

ブルーノ・ラトゥールは「テリトリー」の問題として、現在の環境・社会問題のありようと解決に向けての方向性を論じた著作『地球に降り立つ』で、かつて帝国主義的態度で他国を侵略したヨーロッパが、いまや逆に、移民というかたちで自分たちの土地に他国の人々が無許可に侵入される状況について、次のように書いている。

ヨーロッパにとっての現状は、潜在的移民と100年契約を結んだに等しい。私〔=ヨーロッパ〕はあなたの許しを得ずにあなたの土地に入った。あなたも私の許しを得ずに私の土地に入るだろう。それはギブ・アンド・テークの関係だ。それ以外の道はない。ヨーロッパはすべての民族の土地を侵略した。今度はすべての民族がヨーロッパにやってくる番だ。

限られた土地=テリトリーの奪いあいは、物理的な空間としての土地そのものはもちろん、その土地にあるさまざまな資源――エネルギー、食料、技術、知恵、人材、仕事、人間関係など――を巡ってのものである。
ある土地の資源を、外からやってきた者たちが奪って自分たちのテリトリーに持ち帰るか、外から来てそこに住み着いて資源の利益を享受しようとするか。いずれにせよ、元からその土地に住む者たちからすれば、自分たちの資源を外の人たちに勝手に搾取されているようなものである。

ゆえに移民の問題は、それ単独に存在するというより、むしろ、ラトゥールが「移民の増加、格差の爆発、新たな気候体制――実はこれらは同じ1つの脅威である」と書いたように、稀少な財を各自が私的に「自由に」奪いあうことを是とする新自由主義的な資本主義体制に基づくものとして、経済格差や気候変動の問題と根を同じくしている。

悪事は、陳腐化された労働のプロセスに潜んで

ようするに、こういうことだ。

移民の問題も、経済格差も、気候変動と同様に、富めるものがより富もうとする「経済成長」の名のもとに、他国の人々、貧しい人々、自然環境そのものから、本来みんなのものであるはずのコモンズ=共有財を身勝手に奪いとって私物化し、商品化し、さらにその売買によって利益を得るという搾取行為を、あたかも当たり前の企業活動や金融行動として行っており、それがさまざまな環境・社会問題の原因であるということに多くの人が無自覚なままでいることで起こっているのだ、と。

何より先進国(かつてのそれである日本も含めて)に住む僕らのような人々が自分たちがその加害者であることを忘れて、いまだに自社の利益をあげることが最優先であることを頑なに信じてしまっている。そして、利益につながらなければ、それは単なる社会貢献活動、CSR活動でしかない、やる必要あるの?としか考えることができない。

利益のためなら他のものを犠牲にすることをこれほどまでに厭わない状況ってなんだろう

だって、それが仕事だからと思考停止になるのなら、ハンナ・アーレントが分析したように、ナチスのアイヒマンが行ったユダヤ人大量虐殺という世紀の大悪事が、きわめて官僚的な態度で「機械的労働とともに合法的な悪を積み重ねていった経緯」(巽孝之『盗まれた廃墟 ポール・ド・マンのアメリカ』より)の結果でしかなかったという二重に悲しい事態と大して変わらない。

巽孝之さんが前掲書で次のように書くとき、その陳腐化のプロセスは、まさに僕らが無自覚に日々携わっている仕事が、他者からどれだけのものを搾取するものであるかということが、まったく省みられていないことの批判として読めるのではないだろうか。

アーレントやティモシー・クドーを持ち出さずとも、そもそも「陳腐」"banality"という単語の成り立ちそのものに、強制された労働が一般化し陳腐化していくプロセスが凝縮されているのである。

官僚的な企業人としてか、隣人たちの幸福も考える市民としてか

ヨーロッパでは、気候正義 climate justice の名のもとに、自分たち先進国が引き起こした気候変動の結果が自分たち以上に、グローバルサウスと呼ばれる貧しい国々の人たちにより深刻な影響を与えてしまっているという不公平さを問題視する議論やそれをなんとか変えていこうとする活動がなされている。

こうした市民たちによる活動がそれなりのパワーをもつがゆえに、化石燃料メジャーのような多国籍企業は自分たちの利益源を失わないよう必死にえげつないほどのロビー活動を行なっている。

たとえば、岸本聡子さんが紹介してくれるのは、グリーンニューディール政策を隠れ蓑にした水素エネルギーをめぐる化石燃料メジャーのロビー活動の例だ。

水素エネルギーは、燃焼時に二酸化炭素を出さない「クリーンなエネルギー」であると言われる。その水素エネルギーをEGDの主役に祭り上げようと、燃料産業(特にガス)は膨大なエネルギーを費やし、それが功を成している。
化石燃料産業は新たに水素ロビー集団を形成し、EUの意思決定に影響を与えようと、年間5860万ユーロ(約74億円)をロビー活動に投入している。

こうした新たな搾取の構図に対して、岸本さんが紹介してくれているように、ヨーロッパでは少なからず市民活動が対抗力となっている

さて、僕ら自身は、アイヒマン的な機械的破壊行為を官僚的に続ける利益最重視の側に立ち続けるか、それとも、利益をおろそかにはしないまでも同時に市民としての視点ももってほかの国や地域の市民のことも配慮した仕事や生活のあり方へのシフトを図っていくかの岐路に立っているといえる(ほんとうは岐路はもっと前からあったけど、まあ今からでも自分たちの進む道を真剣に考えなおすのは悪くない)。

企業人であることを優先するか、市民であることを優先するか

このシフトを考えるために、すこし長いがケイト・ラワース『ドーナツ型経済が世界を救う』から引用してみたい。まさに、人類のシフトに関して論じた文章だ。

新しい経済の自画像には、世界のなかにおける人類の位置も反映されなくてはいけない。昔から西洋では、人間に自然を足もとにひれ伏させ、好きなように利用する存在として描かれてきた。「人類に自然に対する決定権を取り戻させよ。自然は神によって人間に授けられたものなのだから」と17世紀の哲学者フランシス・ベーコンは述べている。
(中略)
しかし人類は、自然界のピラミッドの頂点に君臨しているわけではなく、実際は自然の網のなかに深く織り込まれている。わたしたちは生命の世界に組み込まれているのであって、そこから独立したり、それを支配したりしているわけではない。バイオスフィアのなかに生きているのであり、単に惑星に住んでいるのではない。20世紀前半の米国の生態学者アルド・レオポルドが述べているように、わたしたちは自分たちのことを「土地共同体の征服者」と思うのをやめ、「土地共同体のふつうの一員、一市民」だと知る必要がある。

この引用中のベーコンの言葉の解釈についてはすこし誤解があると思うので「消えてなくなる詩のようなお金を夢見て」というnoteの冒頭で指摘しておいたが、「土地共同体の征服者」から「土地共同体のふつうの一員、一市民」へのシフトという話は大いに共感するし、重要だと思う。土地やそこにある資源を私的に利用する征服者、搾取者としてではなく、土地共同体の一市民として土地そのものやその資源をコモンズとして共的に扱うための共同体のしくみをデザインしなおす必要がある

成果が上がっているコモンズは「誰でも好きに使える」ものではなく、明確な形をなすコミュニティによって、罰則のある規則のもとで運営されていた。

成果をあげるために、コモンズを共的=土地共同体のみんなのものとして利用や管理ができるよう、「明確な形をなすコミュニティによって、罰則のある規則のもとで運営」できるようなデザインが必要となる。

そのとき、これまでの搾取の関係は反転する

大企業や東京に搾取されていた地方がみずからのコモンズを用いてみずからの経済をまわすとき、自分たちの土地や資源を搾取から守れるだけでなく、環境的にも無駄な開発、濫用を減らすことができるようになる

ヨーロッパが自分たちがかつて搾取していた国々の移民たちに自分たちの土地を奪われているように、企業はいままで搾取していた土地からの搾取ができなくなって、自分たちの利益の元が奪われる/奪い返されることになるのだ。

さて、どちらの顔ももっている僕らは、これまでどおり私的な利益を優先する企業人として振る舞うか、みんなの幸福を重視する市民として振る舞うか。

ここはそういう岐路である。
そして、シフトのためにはなにより、アイヒマン的な官僚機械であることから脱するため、それぞれがいまの状況をちゃんと理解して自身で考えまわりと議論できるよう学ぶことが最重要な優先事項だと思う。
受け身な怠惰な姿勢こそがいま最も世界を危険に晒しているのだから。

聖フランチェスコは衣服を返した

こうしたことを考えるとき、いつも思いだすのは、ジョルジョ・アガンベンが『いと高き貧しさ』で描いていた、フランシスコ会あるいはその創始者である聖フランチェスコのことだ。

アガンベンは、その本のなかで「フランシスカニズムのおそらくもっとも大切な遺産は十分に汲み尽くされることはなかった」とした上で、「そうした遺産は、後回しにできない課題としてつねに新たに西洋が向き合わなければならなくなるものなのだ」と指摘している。

〈生の形式〉、すなわち、法権利の獲得から完全に解放された人間的な生のあり方や、所有となって実体化されることのない物と世界の使用のあり方を考えることはどのようにすれば可能か、というのがそれである。

他者やその他の物事を、政治経済的な側面のみで財としてみて、私有=所有の対象としてしか見れなくなった現在に対して、世界をまさにいろんな国のいろんな立場の人間が共有するだけでなく、非人間にとっても生きる基盤であるものとして考えられるようにするためのヒントが、フランチェスコたちの遺産には含まれているのだとアガンベンは言うのだ。

その遺産の核にあるものとは、アガンベンが次のように書く「あらゆる法権利の放棄」であろう。

彼らフランシスコ会士たちにとって最初から最後まで不変のままでありつづけており、交渉の余地のなかった原則は、次のように要約できる。修道会にとっても、また創設者にとっても、問題であったのは"abdicatio omnis iuris"〔あらゆる法権利の放棄〕、すなわち、法権利の外において人間として生存していくことの可能性であった。

「あらゆる法権利の放棄」として、いかなる財の所有も放棄したフランチェスコをはじめとするフランシスコ会士たちのあり方のなかで象徴的なのは、この本の表紙にも採用されている、イタリアのアッシジにある聖フランチェスコ大聖堂のフレスコ画「世俗の富の放棄」で描かれた、自分の父親に自分が着ていた服を脱いで返すという逸話だろう。

画像1

裕福な毛織物商の家に生まれたフランチェスは回心したのち、家の商材を親に断りもなく売り捌いてそのお金を近隣の教会の修復のために司祭に渡してしまったことで、父親と口論となった。そこで彼はアッシジ司教の前で服を脱いで裸となって「すべてお返しします」として衣服を父に差し出した様子を描いたのが、この作品である。

と同時に、自分の父親は主のみであるとして、父親との世俗の縁も切っている。そう、無縁である。

表象的な規範の外にある、生きることそのものとしての規則

この「世俗の富の放棄」ということがカバーする範囲は、僕らが想像するよりはるかに広い。それは単にモノの所有の放棄ということだけでなく、アイヒマン的に機械化された規則やコードに従って生きることの放棄でもあるからだ。

「主がわたしに兄弟たちをお与えになってからは、だれもわたしになすべきもの(quid deberem facere)を示してきた者はおらず、いと高き方ご自身がわたしに聖なる福音の型式に従って生きるべきこと(quod deberem vivere)を啓示してくださった」(中略)
実体論的で内容本位の"quid"(わたしがなすべきもの)と実存論的で行動本位の"quod"(わたしが生きるべきこと)のテクニカルな対置は、フランチェスコが戒律や義務を集めた狭義の規則には関わらないことを示している。またその対置はたんに"quid"(もの)と"quod"(こと)との対置であるだけではなく、「なすこと」と「生きること」、戒律や規範を守ることとあるひとつの形式に従って生きるというたんなる事実との対置でもある。

世俗の父(世俗的な社会の規則)との縁を切り、無縁となって、神とともに生きることのみを選び、「主がわたしに兄弟たちをお与えになって」ほかの修道士たちとの共同での修道院生活をはじめたとき、それは既存の教会の戒律や規範からも離れて、自分たちの生活、生きること自体が彼らの修道会規則となるのである。

書かれた言葉でもなく肉声でもなく、法典でもなく生の実践でもなく、規則はこれらの両極のあいだを不断に行き来しながら、まさしく定義することが問題となる完璧な共同生活の理想の探求へとおもむいていくのである。

ここに来ると、ひとつ前で紹介したギ・ドゥボールが『スペクタクルの社会』で問題視した「表象」の問題とも重なってくるのに気づくだろう。

スペクタクルは、経済が人間を完全に服従させたという限りにおいて、生ける人間を己れに服従させる。それは、自らのために発展する経済にほかならない。それは、モノの生産を忠実に反映し、生産者を忠実ではないやり方で客体化したものである。

と、ドゥボールが書くのを読むとき、僕らはふたたび、アイヒマンと自分たち自身の同一性に気付かされる。

僕らは、どうすれば自分たちをアイヒマンと同一化させている既存の規則という衣服を脱ぎ、それを返却することができるのだろうか。それにはまず自分たちが着ている衣服の存在、それが意味することをひとりひとりが自覚することが必要だろう。

その衣服がどれほどの悪事への加担を示すものなのかを。

そのとき、ようやく搾取の逆転がはじまるのかもしれない。

「私はあなたの許しを得ずにあなたの土地に入った。あなたも私の許しを得ずに私の土地に入るだろう」。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。