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目的を見失った仕事

どんな場所を目指すのかがわかっていなければ、どんなコンパスや地図があろうと、目的地にたどり着くことはできない。
目指す場所がわかっていなければ、どこにたどり着こうとそこが目的地なのかが判断できないのだから。

手段ではなく目的に焦点を

こんな当たり前のことは誰でも理解できるのに、なぜか目的地のことをおざなりにして、ツールや方法に固執してしまうのを目にすることは少なくない。
一言でいえば、手段が目的になってしまうということなのだが、そうなると、それが何の手段かは見えなくなり、それをどう使うのが正しいのか判別できなくなる。

答えから言えば、正しい使い方などはない。
いや、もうすこし正確にいうなら、ひとつの決まった使い方はなく、目的と状況に応じて使い方はそれぞれあるということになるだろう。

高いものを取りたければ椅子は踏み台にもなるし、暑くて脱いだカーディガンを背もたれにかけておくこともできる。座るだけが椅子の使い方の唯一の正解ではないし、座面がある程度の広さがあればそこに正座したり、胡座をかいたりもできるだろうから座り方すらひとつの正解があるわけではない。

椅子に正しい使い方を求めるのではなく、結局、自分がどうしたいかで使い方は決まる。

目的地を定められない

にもかかわらず、人は正しい使い方に固執する。ツールやメソッドの正しい使い方ばかり学ぼうとする。
しかし、何をしたいか、どんな結果を得たいのかが見えないかぎり、どんなツールもメソッドも効果的に使うことなどできないのだということには案外気づかない。
そして、そのとき何より問題になるのは、何をしたいか、どんな結果を得たいのかを見極めることができないことだ。

端的にいうなら価値観や美学が備わっていないのだと思う。もちろん、そういうものがぜんぜんない人はいないのだけど、あまりに無自覚に備わったものを雑多に整理せずに、根拠も意図もなく普段場当たり的に使うだけなので、なぜ自分がそれを選ぶのかそれを目指すのかに主体性がない、つくれない。

もってないわけでなく、自覚的に整理してないだけとも言えるのでもったいない。

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価値観を育てる

目的地を定めるロジックはそうした価値観や美学から組み立てるしかないのだけれど、自身の価値観や美学がふらついていれば、ロジックの組み立てはままならないし、他人に対する説得力ある説明はとうていできない。

なので、ツールやメソッドを学ぶのも大事だけど、それと同時に自身の価値観、美学を育て、審美眼を鍛えることはそれ以上に大切だと思う。それには世の中さまざまな価値観や美学に触れたり、それらを内包するさまざまな物事を見聞きしそれを貫く価値観や美学を読み解く審美眼を身につけることが必要だと思う。

自分の価値観や大切にしたいことがわからない人はおそらく、他人のそういうことに対しても無頓着だ。むしろ、他人のそういうことに頓着することから、自分の価値観や美学も育つんじゃないかとさえ思う。利他の気持ち、ケアの心や姿勢って大事なんだなとあらためて思うところだ。他人のことを考えられないというのは、結局、自分のことも考えられないのだろうなと。

もちろん、それを身につけるためのツールやメソッドはない。有益な経験を積み重ねるだけだ。何が有益かとどうかの区別はといえば、主体的に経験したか、自分の頭で考えながら経験を重ねられるかということだけだろう。そう。教えられるのではなく、自分で学んだかどうかだ。

完璧に無意味で、不必要で、有害な仕事さえも

目的なしに、道具や方法にのみこだわるからこそ、デヴィッド・グレーバーがいうようなブルシット・ジョブだらけになるのだろう。目的はなく、ただ正しいプロセスややり方だけがある仕事が生まれ、続けられる。悪質な保守性。

最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償な雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうでないと取り繕わなければならないように感じている。

目的が見極められない人にはぜひ一度、グレーバーの『ブルシット・ジョブ』を読んでみることをおすすめしたい。



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