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司馬遼太郎「項羽と劉邦 上巻」読書感想文

始皇帝の秦帝国は、15年で滅びる。
反乱軍の中心となっていくのが、楚の者たち。
それを描いたのが、この小説となる。

楚は、大陸の南部。
長江の下流、河川が多い地域。
多湿でもある。
稲作をして漁をして暮す。

これに対して、北部は麦作と放牧である。
乾燥している。
生活も文化も違う。

司馬遼太郎は、作中では何度も余談に飛んで、楚人と日本人との共通点を多く挙げていく。

稲作をして漁をするという生活や文化だけでなくて、楚人と日本人の戦い方も似ていると記す。

戦闘の際には、片肌を脱いで「エイエイオウ!」と声を上げるなど、思い当たるような共通点をいくつも挙げていく。

気質も似ているという。
たとえば、楚人は勇敢とされるが、激情しやすくもある。

一見すると、計画があるようにして勇敢に突き進んで戦うが、ただ単に激情して熱くなっているだけで、いったん負けが込むとダダ崩れになる。

この戦い方は日本人と似ていて、古来から太平洋戦争の敗北まで一貫している、など。

ちなみに「坂の上の雲」にも同じような余談があった。
当時の日本兵の射撃の腕は、世界でいちばん下手だった。

あの最弱といわれた清国軍の兵よりも下手だと、戦場に訪れた各国の武官も認めていた。

射撃というのは、落ち着いて淡々と引き金を引かなければ当たらないのに、日本兵はすぐに激情するから外れてばかりいたとある。
しかし、突撃してからの銃剣戦には異様に強かった。

・・・ 余談の余談になってしまった。

とにもかくにも、司馬遼太郎は、楚人にシンパシーを抱いているのは確かだ。

連載していたときの題名は「漢の風 楚の雨」で、その地の風と雨を想像しながら書いたと、あとがきにもある。

それらが伝わってくるから、この「項羽と劉邦」の登場人物には、どこか親しみを持って読むことになる。


司馬遼太郎は “ 劉邦 ” が大嫌い

ただ、司馬遼太郎は、同じ楚人でも、劉邦についてはゲスなヤツとして書いている。
劉邦が嫌いなのが十分に伝わってくる。

この小説は “ 四面楚歌 ” のあと、劉邦軍によって、項羽が討ち取られて終わる。

そのあとの劉邦は “ 漢帝国 ” の始祖となる史実に続く。
けっこうすごいことをしてるのに、ほんとうに容赦がなくコキおろす。

恨みでもあるのではないか?
必ず劉邦の悪口が出てくる。

中国の歴史で、農民から皇帝になったのは、後にも先にも劉邦だけとも書いてはいるが、偉業を讃えることは一切ない。

劉邦への悪口の根拠は一応ある。
司馬遷が著した『史記』の存在だ。
本文中には、たびたび『史記』が取り上げられる。

歴史学者だった司馬遷は、漢帝国から歴史書の編纂を命じられた。
司馬遷は書くにあたって、現地に赴いて取材する。

そうして『漢書』はできたのだけど、帝国には不都合で、公表すれば命も危ないといったエピソードを『史記』にまとめて保管する。

その『史記』が種本にもなっているので、作中の劉邦の悪口は、すべてがすべて創作ではないようだ。

単行本|1980年発刊|330ページ|新潮社

初出:『小説新潮』連載 1977年~1979年

登場人物 - 反乱軍劉邦派

※ 筆者註 ・・・ 以下、すべて司馬遼太郎テイスト、いわゆる “ 司馬史観 ” に沿っています。ちなみに、私は劉邦がいちばん好きです。

劉邦(りゅうほう)

紀元前247生まれ。
の近郊の農村生まれ。

生まれたのが田舎すぎて、正式な名前がなかったほど。
劉邦というのは、平たくいえば “ 劉さんちの兄さん ” という意味である。

青年になると、農事はせずに沛の町に出て “ ごろつき ” まがいの生活を送る。
詐欺師まがいのこともする。
素行がわるく嫌われ者であった。

身長は高くて、見栄えだけは少しだけある。
が、バランスがちぐはぐで、風が吹けば倒れそうである。

時代は秦帝国となる。
30代になると『停長』という、現在でいえば警察官のような役職につく。

あるとき職務で、労役の人夫を引率するが、指定された時間に間に合わない。
このままでは罰せられると、途中で職務を放棄して、人夫とともに逃げ出して身を隠す。
そのまま、小さな盗賊団をやって過ごす。

後に、項梁の反乱軍に加わる。
このとき、41歳である。

戦うつもりはあるようだが、逃げてばかりいる。
めずらしく勝つと大騒ぎする。

反乱軍が大きくなったときに、主だった者には官位が与えられるが、劉邦だけは「大したことない」と無官になる。

夏侯嬰(かこうえい)

劉邦が、沛のごろつきだったころからの友人。
劉邦軍で馬車の御者を務める。
真面目で優しい性格。

樊噲(はんかい)

沛で食用犬の屠殺人をしていた。
劉邦とは遊び仲間だった。
劉邦軍で護衛隊長を務める。

蕭何(しょうか)

秦の役人。
仕事熱心で、地元のために働くのが好き。
反乱が拡大してくると、早くから劉邦に目をつける。
逃げた劉邦を支援する。
戦いがはじまると物資の後方支援をする。

この蕭何がいなければ、劉邦などは、どうなっていたのかもわからない。

登場人物 - 反乱軍項羽派

項梁(こうりょう)

武家の名門の項家の出身。
元楚の将軍。
項羽のおじである。

武将ではあるが、政治感覚にも優れている。
反乱で庁舎を占拠したが、独立も宣言せず、王を称することもなく、秦の官僚制を残しながらの郡部の長を称した。

楚を名乗れば、反対勢力がでてきて分裂すると状況をみてのことだった。
直後に戦死する。

項羽(こうう)

おじの項梁と共に反乱に参加した。
24歳。
身長184センチ。
武勇に優れる。
善悪にこだわり、実直で、軍規には厳しい。
が、個人としては陽気で楽しい性格で、情が深い青年。

項梁の戦死ののち、反乱軍を率いる。
このとき、高官の宗義を斬っているが、彼の生涯で唯一ともいえる権力闘争であった。

范増(はんぞう)

70歳の老人。
項羽の軍師になる。
楚王を再興することで、楚人の支持も得るし、団結もすると考えて懐王を探しだす。

のちの “ 20万人虐殺事件 ” の立案者でもある。

懐王(かいおう)

元楚王の血をひいている羊飼い。
項梁によって、楚王として招かれて反乱軍の代表格の存在になるが、思慮が浅いところがある。

秦の帝都である咸陽がある “ 関中台地 ” に真っ先に入る者を  “ 関中王 ” にすると宣言。
これが混乱の元となる。

宗義(そうぎ)

元楚で官職を持っていた貴族。
秦により追放されていたが、懐王の高官となる。

貴族たちが王を奉り、尊厳を演出する。
そのための儀式をしなければだった。
儀式の基本は、序列である。
最低でも100の官位と、それを受諾する100人がいなければだった。

宗義は一族を呼び寄せ、実権を握り、外交を繰り返す。
が、私的な行為ばかりだった。
反乱軍の動きは留まり、それに危機感を抱いた項羽に咎められて斬られる。

軍を掌握した項羽は、秦との決戦に向かう。

黥布(げいふ)

猛将。
のちの “ 20万人虐殺事件 ” の指揮者である。

登場人物 - 秦帝国側

始皇帝

秦帝国の創始者。
皇帝を初めて名乗る。
数十万の人民に労役を課した。
全国の巡航中に病死する。
それから帝国はガタガタになり、15年で崩壊する。

趙高(ちょうこう)

金玉がない皇帝の側近、いわゆる宦官。
法家思想から王政を否定し、帝国創設の草案を練る。

策謀にも長けている。
中国政治上で最大の奸物。
笑顔が気味わるい。

やがて始皇帝の勅命を独占しるようになる。
始皇帝の死を隠して、胡亥を2代目皇帝とする。

胡亥(こがい)

21歳で2代目皇帝となる。
家庭教師だった趙高のいうがままなって、政治には関わらなくなる。

章邯(しょうかん)

秦軍の将軍。
20万の受刑者に大赦令を出させて兵にする。
各地の反乱軍を鎮圧するが、項羽軍に敗れて降伏する。

ネタバレあらすじ

紀元前221年、秦帝国成る

戦国時代の末期、六国を制したのが秦だった。
長い間、分裂している状態こそ常態であった。
統一こそ異常であったといってもいい。

六国とは、楚、斉、燕、韓、魏、趙。
いずれも、王と貴族を中心とした国々だった。

秦は、各国の王政を廃して、貴族を追放した。
法で統治する体制をとり、帝国を創った。

かつての王国は郡県に区分けて、中央から派遣された長官が、その郡県の行政を司る。
中央は官僚制だ。

“ 皇帝 ” という新語は、彼自身が創作した。
皇帝に対する尊敬などの習慣など根付くはずもなかった。

『つまりは皇帝を倒した者が皇帝になれるのではないか?』と、人々に植え付けてしまったことは、彼自身も気がついてなかったに違いない。

皇帝になってからの彼は、10年そこそこしか生きなかった。

紀元前209年、始皇帝の死で帝国は弱体する

彼の死後、秦の統制力は弱まる。
法治国家といっても、まだ不完全だった。

税の取立ても厳しかった。
大規模な土木工事が行われ、課せられた労役も負担だった。

反乱の中心になったのは、土木工事の労役の者たちだ。
期日に遅れれば死刑になる。
逃げても死刑になる。

どうせ死ぬなら蜂起しようじゃないかと、反乱の集団が各地で生まれた。

司馬遼太郎いわく、秦が亡んだ原因のひとつに、あまりにも刑罰が厳しすぎたことを挙げている。

この戦いのあと、劉邦は漢帝国を興すが、秦帝国の法治制度をそっくり受け継いだ。

劉邦がやったことは刑罰を緩くしただけ、劉邦はなにもやってない、できるわけがない、しょせんは盗賊団の頭、と延々と記している。

各地で反乱軍が結成された

中央の官僚制の停滞が、反乱を大きくさせた。
各地の反乱軍は、かつての王族を擁立。
独立の動きを見せる。

多発した反乱軍は、秦が治める城郭を攻める。
食料と武器を奪取して、そこに流民が合流する。

野盗、盗賊、といった類も取り込んで拡大して、さらに強い軍に合流して、もっと大きな軍になっていく。

反乱軍は流民の “ るつぼ ” だった。
彼らに食を保証することで軍は成立し、それができない大将は彼らに殺されるか、身ひとつで逃亡しなければならない。

いつだって「腹いっぱい食わせるぞ!」という大将の元に兵は集まる。
なので、食料を奪う戦いという面もある。

独立のために戦うというよりも、食うために弱いところに奪いにいくという弱肉強食の戦いでもある。

司馬遼太郎によると “ 革命 ” という意味は、そもそもがこういうものらしい。

天が命じて治世が革新されるのだ。
そのときを、天は飢饉を起こすことで人民に知らせる。

なので、人民は為政者を襲って税としてとられた食料を収奪すべきという考えが、この大陸にはあるらしい。

反乱軍の目的

秦の帝都は西部にある。
西へ西へと、反乱軍は向かう。

まずは、国家管理の穀物倉庫が占領された。
そこを食いつぶせば、反乱軍は次に移動する。

大流民団でもあった。
段取りを少しでも間違えば、一団は飢える。
戦わずして滅びてしまう。
決戦を急ぐ必要もあった。

秦からも鎮圧軍が出動した。
20万の軍勢が、その平原を埋めたのだった。

鋸鹿(きょろく)の戦いの勝利の理由

反乱軍を率いるのは項羽だった。
決戦のために黄河を渡る。
船はすべて沈めた。

楚人にとっては、楚人のみが力だ。
丘の上に立つ項羽は、7万の楚人の軍にいう。

「生きて再び、この黄河を渡ろうとおもうなよ!」

食料を求めるという約束を堂々と破ったのだ。
食料こそが、この集団の行動原理でもあるはずだった。

しかし項羽は、約束を破ったあとに、炊事用の釜を地面に叩きつけて割った。

戦うしかない、死ぬ覚悟はできてる、炊事用具などいらない、と知らしめたのだ。

楚人というのは、感傷性が強い。
7万の楚人が、あらそうようにして、項羽に続いて持参している釜を地面に叩きつけて割った。

共通のはげしい感傷を持つことで、集団はひとつ心にまとまったのだ。

大地の一面を覆う20万の秦軍に、7万の楚人が突撃した。
項羽も駆けた。

楚人は大軍に囲まれて、矢で射られて、矛で突かれて、全滅するのは確実だった。

が、信じがたいことに、秦軍は崩れた。
大軍を打ち破ったのだ。

これについては、複雑な理由などない。
項羽と楚人たちがやったことは、狂ってるとしか思えないほどの、度が外れたことだったのだ。

上巻のラスト10ページほど

反乱軍は勢いついた。
次からの戦いにも、項羽は馬に乗って、前線へ飛び出して指揮をとった。

秦軍は降伏した。
反乱軍は、20万人余りの捕虜を連れての進軍となる。

ある日だった。
捕虜たちの宿営地は、断崖で囲まれた平地となる。
深夜になって、反乱軍は三方を囲む。
いっせいに大声をわめいて、包囲を縮めたのだ。

捕虜は、わけがわからないまま逃げた。
残る一方に向かい、人の雪崩がおきた。

20万人が谷底に落ちたのだ。
規模も方法も、世界史上、この事件以上のものはない。

項羽の人柄は明るくておもしろさもあったが、その割には、この暴挙のあとは、人々の心を引きつけるという吸収力に欠けはじめた。

秦にいる20万余人の父兄たちの、強い恨みを買うことにもなった。

劉邦の人気を上げる要因のひとつにもなったと、このことは当時から評されてもいる。



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