宮城谷昌光「史記の風景」読書感想文
中国歴史小説の第1人者。
回覧新聞の書評に、そう紹介されていた。
宮城谷昌光は、いつかは攻めなくてはいけない。
そう頭のどこかで思っていると、この本が目に留まった。
気になっていた宮城谷昌光が、同じくらいに気になっていた「史記」について書いている。
これはもう「読め」ということだろう。
で、はじめての宮城谷昌光の、最初の1冊となる。
目次には、104の小題が配される。
ひとつの小題は、3ページづつ。
歴史エッセーというのか。
「史記」には、どんなことが書かれているのかを、おおまかではあるが紐解いていく。
小話を紹介して、解説もして、発見もしていく。
小説家らしい想像もふんだんに交わる。
文体は「である。」「であろう。」「であった。」「であるまいか。」という堅いタッチだけど、内容には合っている。
これは “ あとがき ” にあったのだけど、産経新聞で1年、雑誌で2年、合計3年分の連載がこの本になった。
勉強のつもりで書いたとある。
ところが、勉強のつもりだったのが、すぐに浅学を痛感して苦痛になって、挑戦のつもりで書き続けたという。
まだ、小説を読んでないので想像になるけど、宮城谷昌光という人は、相当に真面目だと思われる。
それか「史記」を、相当に畏れ敬っているのか。
司馬遼太郎のように、おもしろおかしく小バカにしてみたり、たわいもない悪口を交ぜたりするノリが1行もない。
紀元前の2000年間を記した「史記」
「史記」は、紀元前90年ころに書かれた歴史書。
それまでの2000年の歴史が記されている。
伝説も含めての2000年間。
とはいっても、現代からすれば4000年前にまで触れる。
文字数は、52万6500。
分厚い小説2冊分くらいか。
書かれていることは、人物、戦い、王朝の盛衰、制度、文化、俗習、言葉の由来、と果てしない。
宮城谷氏は、そんな大著である「史記」に、真摯で真面目に向き合う。
とれほど真面目なのか “ あとがき ” にある。
以下である。
知ったことをすぐに書けば「小人の学は、耳より入りて、口より出ず」と “ 荀子 ” に笑われるであろう。
知ったことが、ほんとうに自分のものになるのは、心身にゆきわたる時を必要とする。
そういう時をもたぬ言葉は、読者への浸潤を失うことがわかっているだけに、忙中にある自分が苦痛であった。
三国志に出てくる人みたい・・・。
武人、宮城谷昌光・・・。
明治か大正の生まれかと、思わずカバー裏にあるプロフィールの生年を確めてしまったが、1945年(昭和20年)である。
それはいいとして。
ひとつの小題は3ページほどだけど、たわいもないことだってあるけど、時をかけて考察されているのが伝わる。
内容と感想
どれほど歴史を理解しているか確めれる本
宮城谷氏は「史記」を考察するために、次々といくつもの古典を併せて補足していく。
「春秋左氏伝」は多く参考にされている。
その次が「詩経」「礼記」あたりか。
「論語」「孫子」「書経」「三国志」「三国義演」といった定番の古典も併せて読む。
「七書」「墨子」「六韜」は、うっすらと、なにかの文中で目にしたような気もする。
「竹書記年」「周礼」「晏子春秋」「呂氏春秋」「帝王世紀」「逸周書」「春秋経」「戦国策」となると目にしたことも耳にしたこともない。
宮城谷氏は、古代ヨーロッパに飛ぶのも違った思索ができると「イーリアス」「オデュッテセイアー」「プルターク」にも触れる。
もちろん知らない。
しかも宮城谷氏は “ 甲骨文字 ” に興味、というよりも好きであるようだ。
甲骨文字の本にも触れて、時代の詳細を補足していく。
日本への影響を探るにあたっては「徒然草」「信長公記」「土佐日記」「赤穂義人伝」「貞丈雑記」と小題ひとつに1冊ほどは出てくる勢いだ。
いかに自分が古典を知らないか、打ちのめされる。
読んで理解を深める読書、とはちょっと違ってきた。
今の自分が、どのくらい歴史を知っているのかを確める読書となっている。
「史記」が日本に与えた影響を知る本
そんな「史記」は、日本にも大きく影響を与えている。
本書で明かされるのは以下である。
平安時代の「枕草子」の清少納言は、おすすめの歴史書として「史記」を挙げている。
江戸時代の初期の「三河物語」の大久保彦左衛門は「史記」の影響を受けている。
「大日本史」の水戸光圀は、18歳のときに「史記」を読んで感動して生きかたが変わった。
江戸時代後期の「日本外史」の頼山陽も「史記」を開いて執筆を続けた。
ついでといっちゃぁいけないけど、司馬遼太郎だって「項羽と劉邦」の作中では、しきりに「史記」を取り上げている。
織田信長も「史記」を学習した説に納得できた
で、宮城谷氏は、まだ若年だった織田信長が “ おおうつけ ” と呼ばれる行動に出たのは「史記」から学んだからだという。
推測ではなくて、確信を持って書いている。
それはちょっと考えすぎでしょ、とは思った。
が、読み終えるころには、うなずけるものは感じる。
宮城谷氏は、104の小題の全編に渡って、多くの “ おおうつけ ” の類を取り上げている。
「鳴かず飛ばず」とは、わざと愚かなふりをして、人の心を試すという意味を本来は持つとか。
「3年間の喪に服す」は、側近の出方を見るためとか。
逆に、遊び呆けていた場合は、同じように政敵の出方を見るためだったとか。
なんとかという王は、庶民の老人の知識に頭を下げたが、そうすることによって近隣の有識者にアピールしたとか。
よっぽど「史記」というのは、そのような “ 人の心を試す術 ” というか “ 権力掌握術 ” が多く書かれているらしい。
織田信長が「史記」から学んだ説を支持したい。
豆知識が一気に増える
この本を読むと、一気に豆知識には富むようになる。
いかに日本語には「史記」からの語源が多いのか。
“ 平成 ” だって「史記」からきている。
“ 完璧 ” も “ 杞憂 ” も “ 太公望 ” という語句の由来もそうだ。
“ 革命 ” も “ 共和制 ” も “ 禅譲 ” もそうだ。
以外だったのは “ 小説家 ” も、この頃からあったこと。
なんと、2000年以上も前からあった職業だったのだ。
周王朝のはじまりが描かれている本を読んでみたい
以外といえば “ 大政奉還 ” も「史記」からきている。
幕末の志士は、周王朝のはじまりに明治維新なぞらえていたと宮城谷氏は説く。
初耳だ。
となると、この “ 周王朝のはじまり ” に興味が出てくる。
紀元前1000年頃だ。
宮城谷氏も「どの時代から中国史に入っていけばいいのか?」と迷うのだったら、商の末から “ 周王朝のはじまり ” の時代をおすすめしている。
真の中国史のおもしろさを知るには、この時代が、中国の原形を最もわかりやすく呈示してくれているように思われる、ともある。
はじめて目にした「遠交近攻」の策
宮城谷氏は「あまりにも有名」と書いているが “ 遠交近攻 ” については自分は初耳だった。
それによると、秦が中国を統一したのは、この “ 遠交近攻 ” の策によって。
それまでの秦の政策は真逆だった。
近くと仲良くして、遠くを攻めていた。
そうじゃないと “ 遠交近攻 ” にしたところ、国威が急速に増して中国統一のきっかけをつかんだ。
不思議ではないか?
この “ 遠交近攻 ” だけは、日本語に浸透してない。
言っている人など見たことない。
たぶん。
日本人の考え方に、沿わない策だからと思われる。
でも、この本で “ 遠交近攻 ” が、いちばんハッとした。
あのとき “ 遠交近攻 ” にしていれば。
事態は好転したのではと、今になってみて思い当たることも多々あるのだった。
「史記」の魅力とは?
最後となる小題になって愕然とした。
なんと宮城谷氏は、この「史記」を読みはじめて16年が経つのに、まだ全巻を読みつくしてないというのだ。
そのかわりといっては何であるが、同じ文を5回、10回と読んでいる、と弁明している。
それ、先にいってくれよぉ・・・。
「史記」を読める気マンマンでここまできたのに・・・。
なんか、ムリそうだ・・・。
が、宮城谷氏は「史記」を開くだけ満足している様子。
気息にふれて気分が高揚する、という。
「史記」の中の人物は、はげしく喜び、はげしく怒る。
大いに哀しみ、大いに楽しむ。
そういう感情の起伏の大きさは、人間の原点にあった。
そこからかけ離れたところにいる現代人が「史記」を読むことによって、人であることに回帰し、やすらぎを得るのではないか。
・・・ そういう本らしい。
それだったら、自分でも読めそうな気がしてきた。
で、書き忘れていた。
「史記」の著者だ。
彼は強い正義感が災いとなり、投獄され、宮刑となる。
宮刑とは男性器を切り落とす刑で、最大の屈辱とされた。
彼が死を思いとどまったのは「史記」を完成させるため。
彼の正義感は、この「史記」の中にこもっているという。
名は司馬遷という。