コモンズの悲劇

古代遺跡が好きなのでイギリスの田舎をドライブした事がある。グラストンベリーやストーンヘンジをめぐり素敵なB&Bに泊った。車はかなりのスピードで走れて、ハイウェイ規格だと思って走っていたら、急に街に入って道が昔ながらのレンガの街なみに入る。それも、ラウンドアバウトで違和感なくスピードを落して止らずに街をぬける事ができるのだ。瀟洒な蔦の絡むパブに寄りたくなるが、スピードを落してながめるだけでも楽しい。産業革命の国、モータースポーツの国、そしてライトウェイトスポーツカーの国。それが自然とケルト世界と共存している。

ところで歩行者はどこを歩いているのだろうか?よく見ると村や農地の入り口にゲートがあって、バックパッカーやMTBのサイクリスト、近くの住人らしきいかにも英国人然とした老夫婦が歩いている。パブリックフットパスという農地の歩道で、私有地でも歩く権利が認められているのだそうだ。これはコモンズという共有地の伝統が有り、領主や農民たちの共有概念から来ていると思われる。

いろいろ文献を見ているうちに経済学の理論に出合った。農民たちは自分の牛を自分の農地で育てているが、牧草は共有地(コモンズ)で村の農民みんなで与えている。農民たちの育てている牛の数に見合う牧草をコモンズでまかなえるうちはいいが、農民それぞれが牛の数を増した場合、牧草をとりあい、コモンズがまかなえる牛の数かたりなくなる。自分土地で牧草を与えていれば自分で牛の数をコントロールできるが、つまり、誰も恣意的に管理していない共有に頼っていたことで、結果的に共有資源が損なわれる。これを「コモンズの悲劇」というようだ。

「コモンズの悲劇(コモンズのひげき、英: Tragedy of the Commons)とは、多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則。ギャレット・ハーディン」(Wikipedia)

「共有」によって成り立っているインターネットの世界でも「コモンズ」はよく使われる言葉であるが、この理論が根低にあるのだった。たとえば、インターネツトを流れるパケットは、エンド2エンドのユ―ザーはそれなりに認識していてアクセス回線やパケット代をはらっているが、途中のバックボーンのコストはISPや回線事業者の共有の上に成り立っている。動画サ一ビスが増加したころから言われている「コンテンツただ乗り」の議論の様な例をコモンズの悲劇と言うようだ。

パブリックフットパスは、私有地を共有化(現代では純然たる共有地ってあるのか?)しているのであてはまらない部分もあるが、観光誘致でフットパスを多くのおいしい所取りの観光客やサイクリストが通れば、道が荒れたりゴミや騒音など悲劇が起きる。牧草の場合はある意味定点観測による「量」で測ることが出来るが、流れる「流量」で測るのは難しいのではないか。。。と、サマセット州の美しい風景とネット空間が妙にオーバーラップした。

「コモンズの”喜劇”」と言うのもあるので読んでみたい。

文京区と日高市に2拠点居住中。