実家の正月、2人の正月、3人の正月
焼き鳥の予定にそわそわと、noteを書かないままオフィスを出てしまった仕事納めの27日。抱えている仕事たちは何も納まっていないけど、「年末年始」の四文字にすっかり浮き足立っている自分に気づく。
実家はふるい家の本家で、独自の決まりごとが多かった。「お正月に旅行」や「寝正月」など浮かれたまねは許されるはずもなく、粛々と親戚をお迎えする三日間。芸能人は年末年始にハワイへ行くと聞き、小さいころは「いったいどんな家なんだ」と憤っていた。
元旦、新年一発目に食べる料理も変わっていた。お雑煮じゃなく、八つ頭(でっかい里芋)の煮物オンリー。毎年、憂鬱な年明けだった。
なにが憂鬱って、おせちやお雑煮のようなカラフルさ皆無、オール茶色の絵面もテンション下がるし、なにより子孫繁栄の意味があるからと「切っちゃダメ」なのだ。でっかい芋をまるまるひとつ食べなきゃいけない。苦行だった。
そんな家ながら、24歳まで年末年始はかならず実家に帰っていたと思う。はじめて東京で過ごしたのは、夫と付き合ったときだ。えいや、と本家の子の務めを放棄した。
あの芋から解放されたい。好きなものを食べてみたい。好きな時間に初詣に行き、初売りに行き、テレビを見て、飲んで、寝て……自由に過ごしてみたい!
……もう、クリスマスの何十倍も楽しみにしていたと思う。
そして大晦日。吉祥寺にある東急百貨店のデパ地下に行き、ものすごい人にもまれながら食料を買い集める。「食べたいもの」だけを食べるお正月にしてやるのだ!
数の子や紅白蒲鉾、エビ、煮豆用の十六寸(とろくすん)などのおせち定番の品、カニ、ローストビーフ用の肉やチーズ、ワイン、日本酒……。
ああ、これぞ自由! とうれしくなる。
ほくほくと夫(当時は彼氏)が住んでいた三鷹に戻ると、駅からまっすぐ伸びる道の歩道に、正月用品がずらりと並んでいた。へえ、田舎っぽくて素敵。
と、そこに、見覚えのあるでっかい芋が。
八つ頭だ。
「うち、元旦はこれの煮物だけだったんだよねえ。豆モヤシをのっけて」
そう夫にこぼすと、目をキラッとさせて「へえ、食べてみたい!」と言う。この煮物「も」食べたい、と。
えええええーーーー。
なんだ結局きみか、という気持ちが湧き上がったけれど、当時はまだ「よい彼女」だったわたしは渋々ながら八つ頭を台所にお迎えした。まあ、ほかのご馳走と並べるならいっか。
結果として、楽しくて仕方ないお正月だった。昼からではなく、元旦からおせちが食べられるよろこびに震えた。おせちと並ぶローストビーフのかたまり。母の味の十六寸と郷土料理「こが焼き」もどき。床暖房の上でごろごろしながら飲む日本酒——。
そして、食べやすいように一口大に切った、八つ頭。
好きなように過ごしつつも、実家の文化を一部引き継ぎついだお正月。
「ああ、大人になったのだ」と思った。
来月で、結婚して7年目に入る。正直、「これが我が家のお正月」というスタイルはまだ、確立されていない。あの年のようにフリースタイルのこともあれば、お互いの実家に帰ることもある。「お正月といえばこれ」がないのだ。
今年はどうかな。
抱っこちゃんの娘を見ながらおせちをつくる気力はないし(そう考えると、厳しい姑のいる家に嫁ぎ何もかも完璧につくり上げていた母には頭が下がる)、寝正月も朝酒もできない。「ああ、なんと自由な6年間だったのだ」とあらためて実感するだろう。次の自由な正月はいつだろうか、と。
でも、あたりまえだけど、お正月は年に1回しかやってこない。あと何回、夫と娘とそろってお正月を迎えられるんだろうと考えると、案外少ないことに気づく。だってわたし自身が「23年間」だったわけだから。
1回1回を満喫して、「我が家のお正月」をつくっていきたいな。娘が将来、「うちのお正月はね」と語れるように。
みなさま、よいお年を。
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