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「よくある話」だからつらくない、わけじゃない

娘の発熱で保育園に呼び出され、終わっていない原稿に悲鳴を上げながら園に猛ダッシュ、病院、「寝ついたら続きを書こう」とソロバンをはじいていたけれど40度の熱にひんひん泣き続ける娘につきっきりでそれも叶わず。

昨日はそんな一日だった。今日は夫と二交代制を取って、朝7時に家を出て昼過ぎまでゴリゴリと原稿を進めた。

そしていまこうしてnoteを書きつつ、「きついなあ」と思っている。

1歳を過ぎて、夫婦ともに仕事量が産前レベルに戻ってきた。でも、子どもはいくら大きくなったと言っても、まだまだ「ほぼ赤ちゃん」。容赦なく体調を崩すし、そんなときは心配で目が離せない。元気になったらなったで、何をするか分からない好奇心オバケからは目が離せない。

しかもわたしが家事をしないと家は荒れる、でも優雅にタオルの端をピンと揃えていては容赦なく〆切に追い抜かされてしまう、雑な生活に少しだけ気持ちが削られる。これから感染症のハイシーズン。いったいどうなるんだろう。 

——と、悲壮感たっぷりに書いたけれどこんなこと、子どもがいる家庭においては「よくあること」だ。「よく聞く話」でもあるだろう。はーん、子どもが熱を出して大変なのね、ツイッターでだれかも言ってた、わかるわかる。よくあることだし今だけだよ、それに自分で決めた道だしがんばれ。

でも。でも、だ。「よくあること」だからつらくないかというと、決して、断じてそうじゃない。事象として発生数が多くても、それでしんどさが分配されるわけじゃない。社会全体で見たら満天の星空にある小さな光でも、当事者にとってはでっかい岩の塊だ。

子育てに限らず、そういうことはたくさんある。
失恋、離婚、死別、配偶者の浮気、いじめ、パワハラ、セクハラ、資産運用の失敗、リストラ、左遷、連帯保証人、自然災害……。
いま指を走らせながらぱっと思いつく「悪いこと」を挙げてみたけれど、ぱっと思いつくくらい「よく聞く話」だと思う。小説のネタにもならないような話。

そんな、遠くから見れば「よくある可哀想なできごと」のワンオブゼムでも、ぐっとカメラを寄せてみると、当事者は心臓がちぎれそうなくらいつらい。足掻いている。途方に暮れたり、投げ出したくなったり、絶望したり、怒ったり、恨んだり、追い詰められたり……。

そこに対する想像力を失いたくない、と真剣に思うのだ。

いま、わたしは「よくあること」で困っている。この瞬間は、誰よりも「共働き・核家族・実家遠方かつ子どもが体調不良」で困っている人に深く共感できると思う。

でも、自分が当事者じゃなくないできごとに対して、どこまで想像力を持てるだろう。カメラを近づけることができるだろう。寄り添えるだろう。自分が順風満帆なときに。それが少し不安で、いまの気持ちをピンで貼り付けておければいいのに、と願ってしまう。

「しんどい当事者」じゃなくなった途端に「みんな経験することだからがんばりなよ」「自分で選んだ道でしょ」とマッチョイズムに転身するような自分ではいたくない。それは、まったく優しくない態度だから。

優しい人でありたい。いまこれを書きながら、何人もの「優しい人」が頭に浮かんでいる。当事者になったことがなくても、めいっぱい想像して寄り添ってくれる人たち。そちら側の人に、わたしはなりたいと思う。

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