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回想記3 『吾妻先生の帰還』

「漫画業界ではデビューは早ければ早い方がいいって言うだろ。なんでか知ってるかい? 編集部が扱いやすいからじゃない。子供の心に近くにいるからだ。学校であったいろんなこと、笑ったことも泣いたことも良く憶えてるだろ。恥ずかしかったこともな。チャンピオンの読者は小学生や中学生なんだ。葉書くれるのもみんな子供たちばかりだ。ところで君たちはいくつだっけ?」

これは40年前の秋田書店の編集さんの言葉です。
名刺は貰ったんですが大昔なのでお名前も忘れてしまいました。
内容は本文で詳しく触れますが、その時はチャンピオンで長く描かれていた吾妻先生のアシスタントになるなんて想像すらしていませんでした。

今回の話を書くにあたって、言及する出版社に対してもかなり直球で行くと思うんですが、3~40年も前の話で現在の会社とは全く別物と考えて読んでいただければ幸いです。
ですがすべて事実に基づいています。
詳細な記録を失くしたので時系列は少し怪しくなる時がありますが。
また出版社にも時代を超えた名誉というものが存在すると思うので、僕がいた出版社のみH社と表記します。

・先生の失踪後

時計を少し巻き戻し、吾妻先生の仕事場にいた頃(1985年)の話に戻ります。
その頃のH社は、集英社の子会社として「花とゆめ」など少女漫画主力体制に男性向け漫画誌も加えるための試行錯誤をしている時代で、「コミコミ」という男性向け主力漫画月刊誌も一般的漫画におたく系からサブカル系までごちゃ混ぜの状態で、雑誌としての方向性があまり定まらない状況でした。
公称10万部の発行部数も最後まで実売5万部以下から抜け出せませんでした。
僕の担当Tさんもおたく系というよりサブカル系を嗜む人で、ラブクラフトの大ファンという熱心なホラー小説読者でもあり、今から思えばあまり漫画の指導に向いてる感じはしませんでした。
これは出版社自体が男性向け漫画への経験が浅く、新人作家への指導ノウハウもほとんど育って無い状態だったからでもあります。
もちろん漫画雑誌編集の基本の基本であるネーム読みが出来ないわけではありません。
その作品テーマにおいての整合性だとか、面白さを損なわずに重複箇所の省略とか無駄なエピソードをカットして規定ページ数に収める指導法は訓練されていたと思います。
ですがもっと広い意味で各作品の方向性だとか、雑誌全体としての戦略性に欠けていたため、招聘した外部作家に頼ってばかりで自社新人にあまり目を向けないなど、とても4大出版(小学館、講談社、秋田書店、少年画報社)に太刀打ちできる体制ではありませんでした。
それが`90年代に入ってからのヤングアニマル創刊まで続いたわけです。

そういう下敷きがあって、まず僕が吾妻先生の特集増刊でゲスト作家1位を取ったところまでは、前回の吾妻さんのアシスタントの章で書きました。
その漫画はたった10ページの『いっこちゃん最後の日』(コミックス『キラーゴースト』所収)という少女が巨大化してカワイイね、というだけのコメディでした。

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個人的にはやっぱりそういう馬鹿馬鹿しい設定の話を描くのが大好きでした。
主人公が巨大化する3コマの視覚効果も実写だったらどう見せるだろうという特撮的要素で描いたりしました。
そんななか(前回も描きましたが)当時はゆうきまさみ先生が「OUT」で円谷特撮的な面白い短編を(今でも必見ですよ)描いていて、かがみさんが亡くなった後も有り難いことにまだアシに呼んでくれていたんですね。
それで原稿上がった後に吾妻さんの増刊号を僕の漫画載りましたと見せたら面白がってくれて、わざわざとりみき先生に電話して推してくれるんです。
たぶん当惑したとりみき先生はお約束のダメ出ししてくれたりして笑ったり楽しかったですね。
というか徹夜明けで原稿上げてどれだけ元気なんだよって話ですよね。
若いってすごいなと思います。
しかしその後から少しおかしなことが始まったのです。
なにかと言うと、編集Tさんはこの読者投票1位というのを勘違いしまったんです。
5回もネームの書き直しをさせた甲斐もあって嬉しかったんだとも思うんですが、それはあくまでネタで1位を取ったのに作家性で1位を取ったと判断してしまったのです。
短編はあくまで短編でありそこで終わりであり、次はまた別のネタで描きなさいという感じで、その後半年あまり「メルティレモン」や季節増刊で毎回違うアイデア出しをさせられ、色んなラブコメを苦労して描きました。
毎回突出したアイデアが出せるわけでもなく、順位は聞いてないですが知れています。
「違うんですTさん。『いっこちゃん最後の日』で運良く1位を取ったんだから、巨大少女もので続きを描かせてください」という趣旨の話をしました。
しかし編集Tさんは話の趣旨が伝わっていないのか、頑なに許可をしてくれません。
シリーズ短編という概念すら存在しなかったんでしょうか。
そうしたらなんと言うことか、その数カ月後月刊ジャンプで某作家さんの巨大少女コメディー連載が始まってしまったのです。
終わりです。
個人的に大ショックでした。
しかし更にこれどうなってるの?と思ったのは、その他社の巨大少女漫画連載の話をしても「それがなにか?」というような対応だったのです。
読者の支持より編集の好みが上にあるなんて聞いたことがありません。
僕にとっては死活問題なのに、編集部的にはどうでもいいことだったようです。
しかしその吾妻さんの特集増刊は売れたらしく、数カ月後柳の下のどじょうでとりみき特集増刊号が出て、僕は違うネタで10ページ描かされました。
もう巨大少女ものは描けず、これといって面白いアイデアは出ませんでした。
あまりにつまらなくてタイトルも思い出せません。

今から考えればその時点でもうH社から離れるべきだったんでしょうね。
ですが1位を取ったと同時に僕は「順専属」のようになり、月々5万円ほど振り込まれるようになったんですね。
「これで我慢しろということか」的なものもあり、踏み切れなくなってしまいました。
生活もありますからね。
毎月食っていかなきゃならない。

でも変なんですよね、当時の慣例で契約書が無かったのはいいとしても、普通新人は雑誌の漫画賞などに応募して佳作とか優秀賞とか取って満を持してデビューみたいな形を取るわけです、
しかし僕の場合は雑誌「コミコミ」すら読んだこともないのに「描いて」と依頼され(吾妻さんのアシスタントに入ってからまだ1ヶ月後のことです)結果増刊号にゲストで10ページだけポンと載っただけで誌面には「新人」とも「デビュー」とも銘打ってなかったんです。
今考えてもよく分かりません。
形だけでも漫画家志望として扱ってもらってH社新人としてデビューさせて欲しかったです。
別に賞金が欲しかったわけではありませんよ(笑)

コミケでゴロ編集に拾われて以来約2年、生活のため流されるように漫画家になったというのが正直なところで、まず先生に死なれ、次の先生は失踪し、流れる川に揉まれているような状態で「ここはどこ?私は誰?」みたいな感じでしたね、いやマジで。
そういうわけで『いっこちゃん最後の日』は当時パクられたとか散々周りに言われましたが、いやいや違うって、女子高生が巨大化するネタに新鮮味なんて無いよ、問題はパクりじゃなくそのタイミングなんだよって。
そもそもこのネタ自体、ウルトラマンでフジ隊員が巨大化したり、米ドラマ『アウターリミッツ』の中のマニング大佐が放射能で巨大化して暴れる『戦慄!プルトニウム人間』というエピソードへのオマージュでしたし、言い方変えればパクりでもありますしね。
世間から忘れられたネタを再利用したのは僕も同じですし、よくある話です。
でもこのトラブルのおかげで、その30年後!にその某作家さんとパーティーで偶然顔を合わせた時、どう対応していいか分からなくなりました。
その時向こうから話しかけてくれたんですが、数十年前のことを引きずってるのもいい歳して変だし、さらに当時の話を今さら聞く気分でもなかったですし、面倒になって受け流してしまいました。
印象悪かったでしょうね。
まったく申し訳なく思っています。

そんなわけで、読者が投票で選んでくれるようなウケるネタはそう簡単に毎回湧いてくるわけじゃありません。
しかし編集部は「短編なんだから完結でね」と言うばかりで、毎回の人気投票を分析して活かすこともせず(じゃあなんで投票なんてさせるんでしょう)キャラクターを育てることも出来ずにずるずると半年間が過ぎました。
投票で選んでくれた読者にも申し訳ないと思っています。
しかしこのH社の無駄な短編縛りはいったい何だったんでしょうね。
当時の少女漫画の傾向だったのか、作家性を重視しすぎてたとしか思えません。
短編でも読者の反応が良ければそのネタを大事にし、さらに熟成し、続きを考えるのが普通だと思うんですが、「読者は一ヶ月後には憶えてないよ」と言うのです。
しかしそれではキャラクターについたファンは置き去りになりますし、そもそも読者を馬鹿にしていたと思うんですよね。
今さら言っても仕方無いのでここら辺にします。

・地獄の季節

その頃、吾妻先生は未だ失踪中で、もらった半年分の給料は「これでなんとかしのいで」という意味だと判断してましたので(解雇だとは言われませんでしたが)次のアシスタントを探さなきゃという気持ちもありました。
しかし幸か不幸かけっこう漫画依頼が増えてきてそれどころじゃなくなって来ました。
メルティレモンだけじゃなくてコミコミの分厚い季節増刊や久保書店の仕事も入って毎月締め切りが途切れませんでした。
この分厚い季節増刊も難物で、ストーリーの流れをを無視して「ここで脱がして」って言われて、もうそれしか脳がないんかいって感じでしたね。
これに載っている『クレープショー』など、最後に無意味におっぱい出して馬鹿みたいです。
エロくしたいのであれば最初からエロをテーマに入れておかないと唐突さばかりが気になっておっぱいなんて浮いてしまいます(笑)
これは僕の中で有名な「歓迎されないおっぱい理論」で、男性読者は筋道に沿った露出にしか反応しないんです。
そこに生じるのは当惑だけです。
なんて冗談はともかく……。

ある日、というか1985年の8月だか9月だかにT編集さんから突然
「1月号から田中君の連載が決まったよ」
と言ってきました。
突然すぎてパニックに陥りました。
あの「決まったよ」じゃなくて、なんか構想ある?とかが先じゃないでしょうか。
いや、普通だったらまず熱意満々の漫画家が事前にですね「こういう連載構想があるんですが見てもらえますか!?」と編集部に企画とキャラ表、1,2回のネームなどを持ち込みますよね。
それでじゃあ見てやるかと編集部の企画会議で回し読みし、ああだこうだ検討して修正させて、形になってきたら満を持して編集長が連載を決定するという流れがあるはずですよね、普通は。
まぁ最近はコンペみたいにしたり投票で決めるところもあるみたいですが。
それに加えて、何の持ちネタも構想もなく2ヶ月後から月産40ページの漫画描ける人を僕は知りません。
しかも世の中には僕より漫画の上手い人がうじゃうじゃいるのに、なんで僕?というのもありました。
流されてここにいるだけですよ、僕。
しかしなんかT担当さんの圧に押され「え、あのー、どんなのを描けば…」と恐る恐る聞くと、
「みやすさんのやるっきゃ騎士みたいのを描いてくれないか」
と言います。
いや、資質も方向性も違うし、ああいうネタで僕に描けるわけがありません。
素直に「あのラインは僕じゃ無理ですよ」と言うと「編集長の厳命だ」とだけ言います。
げ、厳命?
「は?」って顔したと思います。
なんですか、ここはお役所でしょうか。
当時パーティーでみやすさんと知り合ってホラーアンソロジーにも描いてたのをなにか勘違いか曲解したんでしょうか。
というわけでこの編集部、作家性に重きを置いているわけでも無いようです。
要するになんでも場当たり的というか、メチャクチャです。
しかし時間は容赦なく流れていきます。
仕方なくまず状況を現実的に考えてみました。

1月号というのは11月の月末発売、つまり入稿はその1ヶ月前の10月末日です。
あと2ヶ月しか無いし、当然ですがなんの構想もありません。
(ここらへん自分でつけていた年表を失くしてしまったので1,2ヶ月ずれているかも知れませんが前後関係は同じです)
実はその頃、吾妻さんが発見されていると思うんですが、見つかったよと聞かされただけで他はよく憶えていません。
川の流れどころか荒波に翻弄されている状態でしたからね(笑)
その後さらに追い打ちのスケジュールを告げられます。
「田中君は本誌で描いたことが無いので1月号の連載開始の地ならしが必要になった。ということでまず12月号で顔見せの読み切りを載せることになった。40ページ」
「え…うわ???」
頭の中が真っ白になりました。

「地ならしに40ページ?」
「そっちのアイデアはどうするの?」
「アシスタントもいないんですよ?」
「吾妻先生助けてください!」
「先生はノイローゼだよ」
「かがみさんなんで死んだんだよ!」
「君が行く先では不幸が起こるってみんな言ってるよ」
「僕は呪われたアシですか?」
「諦めな、もう誰も君をアシで雇う人はいないよ」

パニック状態で、頭の中はこんな感じでぐるぐるしていました。
ノイローゼじゃなかったと思いますが、神経症的になっていました。
さらにまずいことに僕も人間ですから連載出来るのが誇らしい気分もあるわけですね。
そうなってくると弱い人間は自分に嘘をつくようになって行くんですよ。
なにしろ嘘は初めてじゃない。
年齢も2歳サバ読んだままですからね。

担当に聞いてみると編集長が決めたことは絶対らしいですし、決まったことには逆らえない、やるしかないということでした。
当時の編集長、憶えてますが、スポーツマン系でいつも横縞のラグビーシャツ着てて、それが男性用雑誌編集長として形だけの配置のようにさえ見え、話しかける気力もありませんでした。
格好から入るのが悪いとは言いませんが、創作プランもなにもないのに締め切りが先に決まるというのは明らかな悪手ですよね。

これらが吾妻さんが失踪してから半年間で起こり僕にとっては地獄の季節でした。
結局スケジュールは動くこともなくコミコミの1985年(確か)12月号にまず顔見せの40ページの短編ラブコメを描きました。
単発のラブコメが40ページってだけで笑っちゃいますが、ネタも無いので直近に言われた自分なりの『やるっきゃ騎士』みたいなものを描いてしまいました。
もちろん失敗しました。(読者投票結果は知りません。自己評価で愛着の持てない酷い作品だと思いますし、コミックス収録もしてません)
タイトルも思い出せません。

それですぐに翌月からの連載漫画の制作がスタートです。
ですが『やるっきゃ騎士』みたいのはもう描いてしまったし、どうするのって話になって(止めろよ)じゃあ当時流行っていたおニャン子クラブみたいな集団物で描けと言うんです。
僕は当時KYON2(小泉今日子)のファンだったのにですよ?(いやそこじゃない
タイトルも向こうでいいかげんに決められて、恥ずかしくてここで明かす気にもなれません。
さらに恐ろしいことに、月40ページなのにアシスタントも決まっていません。
記憶は……そうですね、毎回描き飛ばしていたため3回めの作画中くらいしか憶えていません。
カラーは半月早く、ネームが出来ていない状況で入れなければならないので、さらに困難でした。

その頃かな、新人だった奥瀬早紀(今はサキ)さんがアシスタントに来てくれたんです。
確か連載3回目の時に音を上げて「誰かアシスタントお願いします」と編集部に懇願したら彼が派遣されたんです。
奥瀬さんはアシスタントの経験もなかったのに、おかしくありませんか?
画風もまったく違うのに、迷惑な話でもあるし、全てがおかしいですよね。
アパートの部屋に来た奥瀬さんとそんな話して盛り上がり、コーヒー飲みながら談笑して夕方になりお茶会はお開きになりました。
漫画なんて描く気になりません。
彼の家も遠かったですしね(苦笑)
原稿は進まないし、編集部はなにを考えていたのかサッパリです。
編集部ごっこでしょうか?
(こういうことはその後何度も起こりました)
あとこの頃の記憶では、なぜかゆうきさんのアパートで押井守のOVA『天使のたまご』を一緒に観ていた記憶があるんですよね。
観ながらゆうきさんが絶賛していたので間違いありません。
このOVAの発売日が1985年12月15日とあるので、それって時期的に連載真っ最中のはずなのに、なんで僕はゆうき先生のアパートにいたんですかね(アシスタント以外に考えられない)
そんな感じで、連載の方は毎回身が入らずアシも居ず、手抜きばっかりの作画も最低のひどい内容でした。
内容全然憶えていませんもん。
……あ、思い出した。
原稿が手抜きで白いと印刷所が調整するのか印刷が濃くなるんですよね。
活版でしたから線が太くなりスクリーントーンの10%までが飛ぶんです。
もう最低最悪です。
そのくせ読者投票の結果だけは2ヶ月後から知らされてもっとHシーンを増やせみたいなことは言ってたのかな、忘れたけど。
とにかくおっぱいを出せとかの阿呆な提案は無視していたので連載に暗雲が立ち込めて来ます。

そして半年後に連載打ち切りが告げられます。
編集部でT編集さんが深刻な表情で(笑)終了を告げるのですが、内心しらけて当たり前だよという気分でした。
でもしらけながらも打ちひしがれました。
人間の心って重層構造ですよね。
表面上は慌てながらも心のなかには冷たく見下ろしている自分もいたり。
それはいまで言う黒歴史というか、忘れたい作品であり、コミックスにもなりませんでした。
原稿を他社に持って行ってコミックスにしてもらうという発想すら湧きませんでした。

実は僕はかがみさんのアシスタントに入る前に、秋田書店の少年チャンピオンに持ち込みに、というか偵察に行ってるんです。
ほんと物見遊山で、漫画出版社って編集部ってどんなところかなって。
自分のどんな漫画を持って行ったのかは思い出せないんですが、確か友人と一緒に行きました。
そうでした、一緒に「れとりか」をやっていた塩崎くんです。
「マルガリータ」のK編集は彼にも目をつけていてネームを描かせたりしていましたっけ。
元気かなあ。
「れとりか」ということは1982~3年頃です。
見せた漫画はリレー漫画版の『メビウスサーガ』ということになります。
しかしなんで秋田書店に行ったんだろう、いま思い出しながら書いてるんですが詳しい動機が出てこない。
でもあの時の情景と聞いた話はけっこう鮮明に憶えています。
秋田書店のビル1階の午後の光が溢れる広々したロビーで、三つ揃えのスーツを着た30代くらいの編集さんが僕らの漫画を読んでくれています。
髪は軽いカールで当時流行りの薄いカラーのレイバンを掛けてましたね。
そして彼が顔を上げて言った言葉が今でも忘れられません。

「君たちね、もっと自分の一番恥ずかしいと思うことを描きなさい」

帰り道、ふたりで「チャンピオンらしいや」と笑ったのを憶えてますが、いやそんなことはない。
今考えても金言です。
少年チャンピオンは当時、『がきデカ』や『マカロニほうれん荘』の少しあとでノリに乗っている頃のチャンピオンです。
でも大事なのはおっぱい出せとかHシーンを描けとかそういうことだけじゃないんです。
筋道立ってればキャラを脱がせてもいいって話でも無いんです。
自分が恥ずかしいことなんです。
H社に来てからの混乱と多忙からそんな言葉はすっかり忘れてしまっていました。
ずっと昔に名刺も無くしたそのカッコつけた編集さんの言葉は今でも心に刺さります。
当時は親に隠れて自販機でエロ本買ったり、それ見てオナニーしてることが恥ずかしいことだと解釈していましたが、なんて視野が狭かったんでしょう。
映画『ラストサムライ』でトムクルがインディアンの村を襲撃し虐殺したのも恥ずかしい、恥ずべきことなら、特攻崩れで敵艦に突入出来なかったことを恥じて夜うなされることも同じ恥の心、恥ずかしさじゃないですか。
人は恥ずかしさで死を願うことだってあるんです。
そうなんです、3大、4大出版の編集さんにも個性ってあるんです。
というか各々の社風が確実にあるんです。
秋田書店の編集さんはうんこちんこの社風なんです。
『トイレット博士』だって『ふたりと5人』だって、誇るべきうんこちんこなんです。

確か僕はその編集さんに、親が漫画を描くことを認めてくれないみたいなことも話しました。
そしたら少し感じるところがあったのか、その編集さんはウンウンと頷くと、

「いいか、さっきも言ったが自分の今まで生きてきて一番恥ずかしかったことはなにか、よく思い出すんだ。小さい頃でも学生時代でも社会に出てからでもいい、自分の心のなかに封印してる体験。絶対にこれは人には言えない、死んでも言えない、そんな体験がひとつやふたつあるだろ? それを漫画の主人公にやらせるんだ。うちで売れてる漫画家はみんなそれをやってる。それで人気投票トップを取ってる。血の滲む努力って言うだろ? だけどやみくもに努力すればいいってもんじゃない。むしろ進んで血の涙を流せ。あのな、血の涙というのは恥のことなんだ。作品で自分の恥を晒せということなんだ。それを見て読者はお金を払うんだ。子供でも自分の少ないお小遣いで毎週雑誌を買って、それこそむさぼるように読んでくれるんだ。恥ずかしいのは僕だけじゃないんだなって。こんな小さな子供がな、編集部につたない字で必死にハガキに書いて寄越すんだ。なになに先生を尊敬していますってな。知ってるか? 世間一般からは俺たちのような雑誌社は虚業って言われるんだよ。現業に比べて建物とか食い物みたいな実態が無いってな。馬鹿にしてるよな。だけどな、俺たちはいい大人がというか、恥ずかしいという心を売ってるんだよ。そういう心で人は救われもすれば死にもするんだよ。だからな、心には実態が無いなんて俺は言わせないよ。そういう人間には心が無いんだよ。放っておきゃいい」

頭を殴られたような衝撃とはこのことです。
40年前の話です、一言一句この通りだったわけじゃありません。
でも趣旨はこの通りです。

連載終了を告げられた帰り道、なんだか情けなくなって無性に泣けてきて、それでこの編集さんを思い出して秋田書店の方へ歩いて行ったんです。
当時H社の近くだったんですよね、飯田橋駅寄りの。
秋田書店のビルは数年前に来た時そのままに建っていました。
それが夕方の西日を浴びておしゃれなビルなんですよ。

あの編集さんみたいにね。
こうも言ってましたね。

「漫画業界ではデビューは早ければ早い方がいいって言う。なんでか知ってるかい? 子供の心に近いからだ。学校であったいろんなこと、笑ったことも泣いたことも良く憶えてる。恥ずかしかったこともね。編集部が騙して操れるから若い子を優遇してるんじゃない。うちらの雑誌の読者は小学生や中学生なんだ。君たちはいくつだっけ? 22~3歳か? まだ全然大丈夫だよ。頑張りなさい」

そういえばあの編集さんには年齢サバ読んでいなかった。
それ思い出すとなんか笑えて来てちょっと元気になって。
だけどいまさら過去へは戻れません。

・吾妻先生からの電話

さて季節は1986年の春です。
僕は初めての月刊連載に失敗して疲れ果てて、でも若かったから回復も早くて(というか無理やり出来事のマイナス部分は封印して)他社の依頼をこなしていました。
それで6月頃でしたか、またコミコミから短編描けって言ってきました。
連載失敗してるのもあって恐る恐る打ち合わせに出ていくと「今度は好きなもの描いていいよ」と言われます。
好きなものなら不条理コメディーでと思い、32ページは長いと思いましたが、描いたのが『不幸少女と呼ばれて』です。
下のリンクの短編集に入っています。

先生をふたり失くして初連載も失敗して、呪われてるような気分を主人公に投影したギャグかな、コメディーです。
何度も言うけどコメディーで32ページは長いよ。
思えば吾妻先生の『幕の内デスマッチ』も吾妻先生の作風で毎回24ページは長すぎましたよね。
でもしかし、連載失敗してすぐまた仕事くれるんだから見捨てられてなかったのだと思いたいですが、吾妻さんが裏でT編集さんになにか言ってくれていたのかも知れませんね。

その後白泉社のK専務と食事会にも呼ばれ、なんとなく君を悪いことに巻き込んでしまったな的なムードも編集部で感じました。
実際の事情はよく分かりませんが、その漫画はまた短編だけど楽しく描けました。
登場するのは全部人のキャラのイメージで、主人公の少女は当時好きだった江口寿史先生の『ストップ!ひばりくん』の感じで描きました。
パクリとは違うんですが、感じで描くとなんとなく自分のキャラっぽくなるんですね。
当時よく話すようになっていた奥瀬早紀さんはマーカーで適当に描いた背景を見て「この新幹線と富士山はひどい」と言いました(笑)
奥瀬早紀さんは担当が同じだし、僕が討ち死にした後のコミコミのホープでしたから、よく説教されましたね。
そういう意見してくれる人はありがたいんですよね、今でも。
彼とももう知り合って40年になります。
でもまぁ僕は既に好きなものしか描かないと心に決めていましたから。
やっと好きなもの描いてウケたらそれを発展させて行くという戦略に軌道修正出来たんですね。

雑誌が刷り上がって自宅まで届いた頃、自宅の電話が鳴りました。
なんと吾妻先生からでした。
「今月号の短編、面白かったよ」
開口一番にそう言うと、近況などを話し合いました。
そう言ってくれて嬉しかったのとともに、連載失敗で心配してくれていたんだなとも感じました。
主人公が不幸の特異点になってしまった話ですからね(笑)
久しぶりに楽しく話ができて嬉しかったです。
「復帰はいつ頃からになるんですか?」と聞きました。
先生は「いやあ…」と言うばかりで空気を察して話を変えたと思います。
この時に吾妻先生にアシに入ってからの一連の流れは区切りがついたんだなと感じました。
実際その後、先生は何年にも渡る長い休眠期に入ったと思います。
wikiにはこの時期に再度の失踪や自殺未遂などとありますが、T編集から聞くこともなかったので、先生が『失踪日記』を出して話題になるまで全く知りませんでした。
吾妻先生は正統的なSFプロパーだったのに対してこのT編集さんはエログロホラー好きですからね。
不適応の構図が秋田書店の頃に似ています。
まあとにかく1985年の発見後に編集部との関係が切れたんだと思います。
だから次にいつ吾妻先生の作品を見たか憶えてないんです。
良かれと思って人に推薦してもその相手との相性で状況は逆転することもあるわけで、それは誰のせいでもありません。
ですがこれだけは書いておきたいのは、新人さんが作品を持ち込むのならできる限り漫画出版の歴史的蓄積がある大きい出版社が良いということです。
競争相手も多いですが、そういうところほど新人の能力を見極める眼を持っていますし、ピンチの時の処方箋も、終わったあとの選択肢も多彩ですから。

・80年代的マニアックな世界へ突入

1986年も後半に入り、地獄の季節が終わりこの頃から比較的自由に描ける時代に入ります。
まず新書館のホラー映画好きの編集さんから電話が来て、うちの「ウィングス」でなんか描いてと言われなんか描きました。
結果はまあまあだったのでウイングスで時々短編を描くようになりました。
ようやく自由に描けて楽しい時期の始まりです。
作品は映画のパロディーやオマージュから自分の発想で描くようになって行きました。
その代わりにアイデア出しの時は際限なく追い詰められ、真っ白なネーム用紙を前に「あぁもうダメだ、俺は才能ないわ」と絶望するまで行きます。
そうすると神さまが降りて来るみたいにポッとアイデアが浮かぶんですね。
毎回それの繰り返しでした。
パーティーに行くといつも仁木ひろしさんや鈴木雅久さんも来ててオタ話に花が咲きます。
仁木さんは当時話題になってた映画『ヒドゥン』に出てくるオヤジキャラにそっくりなキャラを『メタルキッズ』に描いていて、それを指摘すると「分かりますか」と特徴的な声で返事します。
「そこら辺ですよね」と言うと
「そうです顔に余計な肉が詰まってる感じのオヤジです」
「奇形的ですよね」etcetc……

その頃かな、今度は久保さんに紹介されたというフリー編集の宇田川さんという人から連絡が入り、どんな話かなと駅前の喫茶店で会うと向こうはふたりで来ています。
それが宇田川岳夫さんと青山正明さんでした。(注1)
開口一番「あの連載は酷かったですね、うちで息抜きに一本描きませんか」と初対面なのに好き勝手言います。
実は僕ら今度大正出版から「カリスマ」というカルト系雑誌を出すからお前も描けやという話でした。(主旨)
その頃はこのおふたりの濃すぎる背景はまったく知らず、「へぇ美少女ホラーでいいんですか描きますよ」といつもの安請け合いです。
(この安請け合いが全ての原因かも知れないと思い出して来た……….)
そうなんですよね、コミコミと違ってマイナー誌の仕事は編集もマニアックでしたし気楽で楽しかったんですね。
「なに描いてもいいですよ」
「メチャクチャなの描いてください」
「制限はありません」
とやけに強気で不審に思うほどでした。
そしたら青山さんはみやすさんの『メタル・キッズ』で評論も書いていたと言う評論家だっのですね。
なるほどそういう縁もあるのかとマニア心も昂じて来ます(オタク心じゃないんですよマニア心なんですよ分かるかな)
描いたのは変則的な14ページで、タイトルは『妖獣ハンターVSカッター女』という2~3日で描いた漫画でした。
これも描いてて楽しかったんですが、何て言うんですか原稿料や発行部数が少なくても、編集さんの発する異様なオーラと言いますか、そういう気圧されて描くんですよね。
そういうのもあると思うんです。
そしたらそれがまた割とウケて、後に『妖魔ミカヅキ』の原型になりました。
でもそこでまた僕は致命的な判断ミスを犯します。
それはまた次回に。
(了)

=編集後記=
1986年も後半に入り地獄の季節も終わった感じで、この頃から比較的自由に描ける時代に入ります。
H社と『ウイングス』の新書館と久保書店のアンソロジーの話。
そして『妖魔ミカヅキ』で起きた面倒くさいトラブル。

ではそれはまた次回に。
(了)




(注1)
宇田川岳夫
『セントマッスル』信奉者

「ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者! 青山正明の世界 第13回」
http://sniper.jp/008sniper/00874aoyama/13.html
(なお大正出版は90年代に入って倒産してしまい原稿は行方知れずです)

よければお布施おねがいします。


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