【読書記録】表現のエチカ 桂英史

桂さんの新著、「表現のエチカ 芸術の社会的な実践を考えるために」を読んだのでその記録です。

桂さんの本は、大学院時代に「メディア論的思考」を読み、勝手に感銘を受け作品にも影響を受けたので日本に帰ってきて、新著が出てるのを本屋さんでみて読まな、と思ったものの、読むのに気合いがいるので(笑)ズルズルと読まずにきてやっと3月に入り読むことができた。

芸術が時代と共にどのように変化し、公共空間で行われるパフォーマンスやボイスが行ったような社会活動(アクティビズム)はなんなのかなどが書かれている。また昨今日本でも多く行われる芸術祭が必要なのかということも論じている。

関係性の美学にも取り上げられていた。「パラレル・スペース」という作品について。これは、美術館やギャラリーの空間にタイ出身のアーティストがパッタイやタイカレーなどを振る舞い、食べ物の匂いを充満させるパフォーマンスである。結果的に、来場者もパッタイなどを食べることで、作品の一部になる。これには観客の「戸惑い」や「混乱」を生み出し、一瞬でも作り、考える機会を作るということが、この作品の重要な点という。

また、食事を振る舞うというあえてに日常の状況をアートワールドに持ち込み、パーティーのような振る舞いをすることで、どの時点で観客に受容される芸術になるのかという受容者に関する実践(プラクティス)もポイントであると行っている。そして、これは、あえて「分断」や「差異」をみせることがアートとなり、アートワールドで重要性を帯びてくると記載がある。

非常にこの部分は、自分でも作品を作っていて非常にふわっとしていた部分だったので、納得することができた。正直、パラレル・スペースは知っていたが、私自身もこのパフォーマンスはなんなのかあまり理解することができなかった。タイ出身者が自国の料理をアートワールド(いわゆる西洋の形式に乗っ取っている場所)であるギャラリーに持ち込むこと自体が、パンチ効いているな(笑)と思うだけだったけれど、その意味として、確かにシンプルに分断が見えてくる。しかも、観客が参加する、つまり受容する動作が大事なのだと。

また、この次には受容の次に「寛容」という事について書かれている。この本でいう寛容とは、芸術作品に対して、寛容な心で接するということだと私は受け取った。特にパブリックアートは公共空間にあるため、いやでも目にする。芸術は、上記のように分断を見せることで、戸惑いや混乱を見せるものもある。そうなると、その作品に対し、批判的な意見がでる場合もある。ただ、お互い寛容な心をもつことが大事である。と書かれている。

(と思っていたけれど、なんか書いていてこの部分がまだ理解していない気がする。。。)

ただ、寛容というのもなんともざっくりした言い方でなんか上目線である。そして、その寛容の態度が今でいう、マルチカルチュリズムなどを生み出しし、そこからたくさんのアートが生まれた。しかし、その寛容も資本主義経済は飲み込んでしまう。つまり、アートマーケットの中に吸収されてしまう。

ボイスは、それに対抗して、社会彫刻という活動を通じて、資本主義経済の再考を促すメッセージを出している。人生そのものがお金で考えらられるような資本主義に対して、表現という人間が本来的な能力とその影響力を信じて正面から向き合った。しかしそれもアートワールドに吸収されてしまう。

そうなった時に、著者は、芸術実践(アートプラクティス)が必要なのではないかという。具体的には、様々な他者を受け入れる歓待を抽象化し提供することである。歓待をめぐる遊びが、芸術というコンテクストでは、生々しい現実から目を背けることなく思索を深め、実践を積み重ねれば、解放に向けて考える機会を獲得するという。そしてそれが、アートワールドの資本主義的なところや権力の行使を最小化すると言っている。

このアートプラクティスはつまり、歓待ゲームをすることかと私は受け取った。そして、提供者(作者)と受容者がわからない状態で受容者実験をすることで作品が完成する。

というのが、私が思う、結論だった(が、違うかもしれない...)

結局、作品を作った際に作者が見えてしまうと、ボイスのようにアートワールドまたは資本主義の中に吸収されてしまう懸念がある。そう思うと、バンクシーのように匿名性を保ったまま活動を行うのが良いのかもしれない。と書いたところで、結局バンクシーも作品が高値で売買されていることを思い出した。

歓待ゲームに近い形なのは、個人的にはワークショップなのではないかと思う。ワークショップにも様々な種類があるが、ある種、何かになりきってその時間の中で話したり、同じ行為をすることを強いられる。そして作者が同じ立場で参加する場合もある。よって、作者を作者と意識しない中で受容者実験が行われるのではないかと思う。

とはいえ、ワークショップの専門家でもないし、ワークショップを行ったことがないので、なんとも言えないが、参加者としては経験があるため、似ている印象がある。

この本からいえるのは、芸術が資本主義やアートワールドつまり、お金持ちのための資産として捉えられる世界からの脱却は難しい。もちろんそれをあえて選び生き抜くアーティストもいるが、パフォーミングやソーシャリー・エンゲージドアートとは一体何か、それはアートワールドの中に入っていくのか、違う方向にいくのか、違う方向にいく場合、どのような展開があり得るのか、勉強になった。