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感情の清算無しには終われない

「明日から会社に来なくていい」、つまり即日解雇から約10年。
「予告」でもちらりと書いたが、当時のメールを見返したりすると、胸が苦しくなったり動悸がしたりして、自分の中であの出来事が未だ終わっていないのを感じた。

その原因は、「概略編 その1」を書き始めてすぐに分かった。

私、あの時のパワハラ、"無かったこと"にしてる...

「もらえるもの貰ってさっさと次行こう」と考えていた当時。
そのパワハラを、
「言ったところで何の役にも立たない」
「下手すりゃ、変ないちゃもんつけられて貰えるものも貰えなくなる」
という考えであえて触れない、それが私なりの"判断"だと思っていた。
書き始めるまでは。

当時は即日解雇のショックの余り、何に一番ショックを受けているのかが分からなかった。そしてそんな事を考える間もなく、もらえるものを貰う為と、次の仕事を見つける為に、次々に色々と行動しなければならなかった。

10年近く経った今、そのショックの源を言葉にするならば、それは、
「あまりにも、自分が粗末に扱われた事」。

そして、貰えるもの、に対して「コスパゼロ。下手すりゃマイナス」という基準でパワハラの存在を切り捨てて、口をつぐんでしまったことは、
「同じくらい、自分で自分を粗末に扱っていた」
事に他ならなかったのだ。

さらにもうひとつ、その感情を下支えしていたものがある。
それは、「自分にも非があったんじゃないか」という思いだ。
しかし、渦中にいない今は、はっきり「そういうことではない」と言える。

パワハラにしろセクハラにしろDVにしろ、被害者側に何らかの非があったとしても、加害者側の行為が正当化されたり、相殺されたり、ましてや無くなるなどということは絶対に無い。
それはそれ、これはこれ、で考えるべきものであり、考えられるべきものである筈だ。

しかも大概の場合、第三者から見ると「被害者側の感じている非」は取るに足らないものであることが殆どだ。”そう思わせる”ことも、地続きのハラスメントの一部なのかもしれない。

だが、普段はおぼろげに解っているその事が、”中の人”になってしまうと、感覚が麻痺してしまう。最近、ブラック企業体験イベントや、大学でのナチスを体験する授業が行われるようになってきた事を考えると、それは、「概略編 その1」で揶揄するように書いた「どこにも居やしないみんな」とは似て非なるものなのだろう。

人は集団になると、狂気を孕む(可能性がある)。

だからこそ、「感情の清算」は独りの作業だ。
もちろん、決して無理に終わらせる必要も清算する必要もない。
けれど、誰かの助けを借りたり何かのきっかけがあったとしても、それは自分にしか出来ない、決して切り捨ててはいけない自分の為の大切な仕事なのだ。




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