short photo story-記憶にふれるとき、私は、
記憶はどんなに留めておきたいものだったとしても、日々が過ぎれば何事もなかったように、今目の前の記憶を頼りに蓄積されていく。そして、また目の前の記憶もいつか過去のものとなり、私の意識の奥で誰かが取捨選択をし、私の意思とは関係なくその明かりを消す。そんなことを繰り返し生きていくうちに、私の意識の奥の誰かは、私が傷つかないように、そして傷ついたとしても他の素敵な思い出によって記憶を消去する術を身につける。それがきっと生きていくということなのだろう、と思う。
27歳の残暑厳しい夏の終わり。暦上は秋のはずだけれど秋はまだ遠くにいる。存在するはずなのにしないとなるとなんだかより恋しくなってしまうのはきっと人間の性なのだろう。
私は婚約者の渉を連れて母方の祖母の家に来ている。小さい頃は夏休みになると必ず来ていたものの高校生になったあたりから帰省の回数はどんどん減り、社会人になった私は日々の忙しなさのせいで今回5年ぶりに祖母に会う。結婚という大きなタイミングを逃すわけにも行かないし、祖母には幼少期、仕事の忙しい両親に代わってたくさん面倒をみてもらったこともあるので、純粋に結婚の挨拶を祖母にもしておきたかった。
祖母はいつもの優しい笑みを浮かべながら婚約を喜んでくれた。渉は胸を撫で下ろし祖母と仲良く談笑している。そのうちに祖母はたくさんのごちそうを並べ、私が結婚すると聞いた近所の人がおかずやお酒を持参して大宴会が始まった。まだ昼だというのに宴は勢いを増して、私が顔を知らない人までもが祖母の家で酒盛りをしている。昔から祖母の家にこうやって人が集まっていた。田舎ではよくある光景なのかも知れないけど、私は祖母の面倒見のいい人柄が人を集めるんじゃないかと思っている。
対して私は大人数の集まりがあまり得意ではない。嫌いではないのだけれど、自分の位置を見つけられない会は今にも逃げ出したくなる。渉はどちらかといえば祖母よりの性格をしているので、今も誰だかよく分からないままお酌をしたり談笑したりしている。私の祖母の家ということもあって気を使ってくれているのだろう。
私は少し風に当たりたくなり一人外へ出た。昼を少し過ぎ、夕方に移行しようかどうしようか悩んでいるような空が見え、少しじめっとしているが、気持ちのいい風が吹き始めている。私は記憶の限り散歩してみようと歩き始めた。
田舎といいつつも田んぼ道が広がっているというよりは、山があって住宅街もあってその中に田んぼや果樹園が点在している片田舎だ。ただ過疎が少しずつ進んでいるためコンビニに行くには20分ほど歩かなければならない。もう少し近所に、並んでる商品がコンビニに近い個人商店があるのだけれど、そこを切り盛りするおばちゃんを祖母の家で見た気がするのでおそらく開いていないだろう。
私は近所の住宅が並ぶ道を歩く。日曜なのに静か。それとも日曜だからなのか。すぐ目の前に見える山から鳥の鳴き声が聞こえた気がした。
歩いていると、その先に人影が見えた。この地域には珍しい私と同じくらいか少し若いくらいの男の人だ。身に覚えはないが、会釈ぐらいしておこうとすれ違う瞬間に少し頭を下げた。だけど相手は頭を下げることなく私を見ていた。不思議に思いはしたものの私は足を止めることなく彼とすれ違った。知っている人かどうかもう一度考えるが思い当たる節がない。そもそもこの地での知り合いは近所のおばちゃんおじちゃんやその孫たち。といっても夏休みの数日会うということを数年続けてただけなので今会っても見た目だけじゃ分からないかもしれない。
その時、後ろから声をかけられた。
「やよいちゃん」
風が夕方の空気を纏い始めている。
どこかで聞いたことのある懐かしい優しい声が私の名前を呼んだ。
この地域では弥生という名前にちなんで私のことをやっちゃんと呼ぶ人がほとんどだ。それなのに、私のことをやよいちゃんだなんて呼ぶ人がいるなんて。そんな人がいたら私はきっと覚えているはずだ。 彼は私とすれ違った場所で足を止めている。さっきまで合っていた視線は外され、彼は決まりが悪そうに俯いている。
「……」
夏休み。まだ小さな私に、「行ってきなよ」と促す男の子。私は少し寂しそうにする男の子を見ながら近所の子と山へ遊びに行った。彼はいつも何かを諦めたような顔をしていた。だから、私はあれ以来山へ遊びに行かず、ずっとその男の子と遊ぶことにした。笑って欲しくて、私の大好きだったメロン型の容器に入ったアイスを持って……あおいくんの住む家に遊びに行っていた。
「あおいくん……?」
思い出した。あおいくん。
夏休みにここに訪れた時に必ず一緒に遊んでくれた子の一人。近所の鶏を育てているおじちゃんちに住む孫。誰かにごっそり盗み取られていたかのように、今の今まで彼の記憶が私の中で無かったことになっていた。思い出を1つ思い出すごとに視界がぼやけていく。ずっとずっと会いたかった人だ。
私はあおいくんのもとへ駆け寄って腕を掴んだ。どこかへ行ってしまわないように。
「久しぶり」
「久しぶり」
あおいくんがやっぱり恥ずかしそうに視線を逸らすので、私も同じように俯いてしまった。話したいことはたくさんあるのに、言葉にならなくて。あの夏に聞いたような気がするセミの声だけが聞こえた。
「アイス食べる?」
「アイス?」
「好きだったよね。メロンの」
「うん、好き」
あおいくんは私の頭をポンポンしてから、私の前を歩き出した。
私は夢の中にいるような気がしていた。まっすぐ歩いているはずなのに道がふわふわしている、そんな感覚がある。奇妙なのだけど、嫌な気持ちはしない。どちらかと言えば心地よくてここにずっといたいとさえ思う。
彼は私の前をゆっくり歩いている。私より大きい背はやっぱり私より頼りない気がする。幼少期の記憶が朧げに頭に浮かび上がる。私はこの景色をやっぱり見たことがある。
気がつくと、例のおばちゃんの個人商店が見えてきた。私は小さい頃祖母にメロン型のアイスをよく買ってもらっていた。何かとつけてねだっていたのを覚えている。もちろんあおいくんともよく一緒に食べた。 彼はなんの迷いもなくその商店の中へ入っていく。鍵が開いているところがなんとも田舎らしい。
「ちょっと」
「ん?」
「おばちゃんいないよ」
「でも、開いてる」
「いやでも……」
「お金置いていけばいいいよ」
彼は慣れた手つきで、メロン型のアイス二つと、スプーン二つを手に取り、小銭を会計皿に置いて私のもとに帰ってきた。見たことのある涼しい顔をして私にアイスを渡してくるので受け取る。
手に乗ったメロン型のアイスはあの時よりも少し小さくなっていたような気がした。物価高騰のためか、私が大人になってしまったからか。なんてことを考えていると、あおいくんはずっと先を歩いていた。私より頼りないその背中は夕方の風に乗ってどこかへ消えてもおかしくないように見えた。 私たちは水の流れていない小川の端に座ってアイスを食べることにした。田舎だからなのかじっくり溶けていくような時間が流れる。
……ん?
「こんな味だっけ」
私が想定していた味とどこか違う。メロンの味がぐっと濃くなったような気がする。私が子どもの頃に食べていたメロン型アイスはもっとこう、チープな味がしていたと思う。かき氷のシロップみたいな子ども心くすぐられるようなそんな味。
「どうだっけ」
「もっとほら、なんていうかな。シャーベットみたいな」
「あぁ」
あの頃私が好きだったものがもうこの世にはないかもしれないと思うと寂しさと悲しさがこみ上げてきた。それは誰かが私の記憶に蓋をしたことを悟った時と似たような喪失感だった。私たちはたまに通る車をなんとなく見送りながらアイスを食べた。
「これも美味しいけど」
「……うん、そうだね」
「山登りたいな」
「山?」
さっきまで黙ってアイスを食べていたあおいくんが後ろに立つ背の低い山を見ながら言った。あそこの山は近所の子どもたちがかくれんぼをしたり虫取りをしたりする遊び場になっていて、山で鬼ごっことは田舎の子たちはなんてハイレベルな遊びをしているのかと驚いたことを覚えている。
そう呟いたあおいくんは悲しい顔をしていないのに、私は酷く悲しい気持ちになった。
私はあの頃、みんなと一緒に山に登れないあおいくんが可哀想なのと一緒に遊びたいのとであれ以来山での遊びは断るようにしていた。勝手に本人の気持ちを汲み取った気になって、勝手に可哀想と思って。私はあの頃とあまり変わってないみたいだ。あおいくんは私の記憶よりあっけらかんとした顔をしている。
「うん、一緒に行こう」
おばあちゃん家の裏手にある山はある程度は整備されていて、ところどころに公園のような場所もあり無茶な道を行こうとしなければ遭難はしない。だからこそあの頃子どもたちだけで山で鬼ごっこしてたのだろう。小さい時はあまり気にならなかったそこら中にいる虫たちが気になって仕方がなく、耳元で羽音がなる度に背中がぞくっとする。後ろを振り返ると、あおいくんは平気な顔でなかなか行けなかった山の中の景色を楽しんでいるようだった。
「疲れてない?」
「大丈夫。ここで遊んでたんだね」
「そう、だね」
私は黙って山の中を進んだ。あおいくんも何も言わず私の後をついてきていた。
山の中にふと現れた橋の上で私はふと空を見上げた。空はオレンジが少しだけ薄くなって来て、夜がもうすぐそこにいるのだと感じる。風が少し冷たくなってきた。少しだけ秋の気配を感じる。
後ろを振り返るとあおいくんも足を止めて空を見上げていた。
「帰ろっか」
子どもの頃の帰る時間だった。五時の音楽が町中に響き渡りそれに呼応するようにカラスが鳴き始めた。私が首を振ったのであおいくんはあからさまに困ったように頭を掻いた。
あおいくんと山を歩きながら私はあの頃のことを思い出していた。夏の終わり、つい1ヶ月前におばあちゃん家に帰ったばかりだったのに私はまた車に乗っておばあちゃん家に向かっていた。その時私は会えなくなるということの意味が正直あまりよくわかっていなかった。同世代の子が亡くなるということが現実的にピンと来ていなかった。だけど、おばあちゃんの家に帰っても、いつも遊んでいる子たちはいるのにあおいくんだけはいなかった。つい1ヶ月前は一緒に遊んでいたはずのあ
おいくんが、いなかった。大好きだったあおいくんがいなかった。
「もう少しだけ」
私は遠い記憶から手繰り寄せた場所に向かって歩き出した。
沈みかけの夕日を見ながら、私は自分の心と記憶とを空に映し出してしばらく考え込んでいた。世界が青に染まり始めている。
「私あおいくんがいなくなった時、悲しくて悲しくてどうにかなっちゃいそうだったの。どうしてもう会えないのか分からなくて。……分からなかったの」
泣きたいわけじゃなかった。何のために誰のために泣いてるのか、うまく理由を説明できないし、泣くということが、誰かを責めることになるということも分かる大人になった。なったはずだった。
あおいくんは苦しそうに私を抱きしめた。秋を運ぶ風が吹いてきたからなのか、あおいくんの体は少し冷たかった。
あの頃からあんまりしゃべらない子だったから、あおいくんが何を考えているのかわからないことの方が多かった。今はほんの少しでも、心を通わせられているだろうか。
「僕が1度やよいちゃんの前で倒れたこと覚えてる? やよいちゃんパニックになってずっと泣いててさ。僕は声をかけてあげたいんだけど、一言も声が出せなくて」
綺麗に鮮明に残酷に覚えている。あおいくんが木に登ったり走ったり泳いだり出来ないことは最初から説明を受けていたので分かっていたけど、倒れるなんて思ってもいないくて、私は何も出来ずにただ大声で泣いた。あおいくんがいなくなる1ヶ月前のことだった。
「ダメなんだ。やよいちゃんが泣いてると。お願いだから、泣かないで」
「そんなこと言われても……無理」
私が意地悪を言うとあおいくんは私を抱きしめながら小さくごめんと呟いた。謝ってほしいわけじゃないのに。だけど、あおいくんのせいでこんな気持ちになった
のだ。あおいくんの、せい。
きっとあの頃の私はあおいくんでいっぱいだったのだろう。全ての言動があおいくんによって決まっていた。きっと全部あおいくんのせい。今日あおいくんに再会出来たのも、きっとあおいくんのせいだ。
もっと早くあおいくんを責めることを知っていたら、私はあおいくんという記憶を誰からも奪われないで済んだのだろうか。
「ずっとここにいて」
あおいくんの腕を解いて、あおいくんの目にそう願った。ずっとそばにいてくれなんて願わないから。ただここにいてくれさえすればいい。あの頃みたいに。あの時大きな声で泣いた私の声まで、願いとして届いていたらいいなと思った。
「……ごめんね」
あおいくんはそう言って私に短いキスをした。
もう日が沈む。夜が来る。こんな時間にあおいくんと二人きりでいるなんて初めてのことだ。大人になったんだなとあの頃に思いを馳せる。
「一緒に来る?」
あおいくんは私から目を逸らした。私はまた空を見上げた。空はもうほとんど夜に染まっていて夕日のオレンジは居場所をなくしたかのように消えかかっている。
あおいくんと目が合った。一緒にいたいとあの頃の私がずっと叫んでいる。もしかしたら私の意識の奥の誰かが隠していたまた奥にあの頃の私がいて、あの頃からずっとそう泣き叫び続けていたのかもしれない。
次の言葉を探していた私を、呼ぶ声がした。渉の声だった。私はその声を聞いて安心したのだろうか。それとも。
あおいくんの姿はもうそこには無くて、穏やかな風が吹くばかり。やっぱり私は……。
誰彼時。私は渉の前で涙を隠せなかった。
撮影
熊﨑杏奈
https://www.instagram.com/kumazaki_photo/
小説
森咲水
https://note.com/sui_morisaki/
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