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刹那を生きる

「将来のために今努力する」と言う言葉はいささか聞き飽きたものだ。将来良い生活をするために今大学受験を頑張る、就活を頑張る、仕事を頑張る。私たちはこのような考え方を徹底的に教え込まれてきた。
この言葉はつまり「今」努力をすることへの理由付けなのだと私は思う。無論、例えば親からしたら子供には勉強をしてほしいだろうし、就活にも力を入れてほしいだろう。それは子供が独り立ちした時に物質的、経済的に恵まれてほしいという親の切なる願いによるものである。けれども彼ら(親とか学校の先生、子供に教育をする人全般)の本当の目的は、子供に今努力をさせることなのだと思う。
将来という非常に曖昧な子供には分かり用のない概念を持ち出し、勉強や就活というおそらくは将来の役に立ちそうなものたちを子供に徹底させようとしているのだ。勿論それ自体が悪いことであると論じるつもりはさらさらない。他方で「今この瞬間」に「『おそらく』将来の役に立つであろうもの」を子供に強制させるのには少しばかり疑問を感じるのだ。

「今」とはかけがえのないものである。今この瞬間にしか積むことのできない経験や、今この瞬間にしか感じることのできない思いは山ほどある。それらを得ることのできる可能性を見捨ててただ将来のために生きるのはとても勿体のないことなのではないかと私は思うのだ。将来を見据えて生きることも決して悪いことではない。だが、将来だけをみてばかりでは視野が狭くなってしまうのではないか。

刹那主義という考え方がある。元は釈迦の教えであり文字通り今という刹那を大事にして生きるという考え方だ。時に楽観的であるとして批判されるこの思想は人生において大切な概念を内包していると思うのだ。
「将来」とは「今」の積み重ねである。「今」は「将来」にとっての「過去」であり、「今」無くして「将来」は存在し得ない。前述の通り、今には今にしか得られないものがある。であれば今を大切にして生きることはある意味では将来を大切にしていると同じようなものなのではないだろうか。

将来を見据えて今を蔑ろにする行為は、逆に将来を潰してしまう危険性を孕んでいる。現代社会において人生を生きる私たちは時に将来に向けて努力することを求められる。勿論これは私たちの人生のための行為な訳だが、この行為が人生のためにならない場合も存在するのだ。

人生を生きるというのは「今」を生きるということである。今この時にしか得られないものを最大限享受するということが人生においては大切なのだ。刹那とは過去でも未来でもないこの一瞬のことである。私はいつまでもこの刹那を大事にして人生を送りたい。


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