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【土曜日は一首評】 核発射ボタンをだれも見たことはないが誰しも赤色と思う/松木秀『5メートルほどの果てしなさ』

この短歌に出会う前の自分に「核発射ボタンってどんなのだと思う?」となにげなく訊いて、それを絵に描かせてみたい。そして画用紙にまんまと描かれた赤いボタンをみて、大笑いしたい。

この短歌は、どアタマからインパクトのあることばがくる。

「核発射ボタン」という語には、少なくとも聞き覚えはない。ただし核兵器・原子爆弾といったものの発射を許可する装置としてのスイッチのようなもののことを言っているのだということはもちろんわかる。

核兵器が世の中にある限り、核の発射を許可するような機構は存在するのは確かだろう。それは「ボタン」じゃないかもしれない。レバーかもしれないし、キースイッチかもしれないし、カードをかざしたりパスコードを入力するようなものかもしれない。大多数の人間にとって「見たことはない」わけでその形状や色、構造については知っているはずもない。

それなのにぼくは実際「核発射ボタンをだれも/」まで読んだ段階で脳内に赤いボタンを思い浮かべてしまっていた。読み手のひとりであるぼくがぼんやりと(けど確実に)その赤いボタンを思い浮かべていた状態のなかで、作中主体は「誰しも赤色と思う」と言い切ってみせた。なるほど核発射ボタンなんてものは一回もみたことがないし、その存在じたい怪しいのにも関わらず、赤色と決めつけていた自分は確かにいた。だからまずグッと惹きつけられてしまった。

(ところでドラえもんのひみつ道具のひとつに「どくさいスイッチ」がある。「消えちゃえ」と言いながらスイッチを押すと、対象の相手がはなからいなかったことになってしまう。強烈なメッセージ性から多くのドラえもんファンにトラウマと意義深い示唆を与えた道具で、ご存じの人も多いと思う。そしてこのどくさいスイッチもアニメ版ドラえもんにおいて赤色のスイッチとして描かれている。)

バラエティー番組や映画・ドラマ、あるいは「どくさいスイッチ」などで出てくるようなボタンにおける「色づかい」「押せばいいだけの単純な仕組み」というのは視聴者にそのスイッチの扱い方とそれによっておこる出来事を端的に理解させ、気持ちを盛り上げるための演出にすぎず、実際の核発射ボタンというのはもっと無機質で複雑な仕組みを有していると思われる。

「あるある」はたまに、「そりゃあそう」であったりもする。たとえば満員のエレベーター内で階数ランプをふと見てしまうのは、自身のパーソナルスペース内に大量に人が入り込んでくる不快・気まずさから階数ランプへと注意を紛らわせようとする脳の無意識のはたらきからくるものだ。短歌においては、そりゃそうあるあるを単純に詠みいれるだけでは、インパクトが劣ってしまう。「満員のエレベーターで階数のランプを見上げるひとたちである」なんていう短歌はつまらない。これはこのあるあるがそもそも何度もこすられてきたあるあるであるということもさることながら、かなり明確に説明可能であることもつまらなくしている要素の一つだと思う。
だから景としてはあるあるだとしても韻律や修辞の部分でそのおかしみを演出したり、あるいは単純にそりゃそうから脱することができるような(現象の理由が説明しにくい)次元の高いあるあるを用意する。

さっきまで騒いでいたのにトイレでは他人みたいな会釈をされる

あるある短歌の名手・木下龍也

ここで、掲出歌について考えるとき、核発射ボタンを赤色と決めつけてしまう現象も説明はできる。先ほど述べたとおりバラエティー番組での演出や、映画・アニメ・ゲームなどで度々でてくるスイッチのイメージが脳内に刷り込まれていて、それを核発射ボタンにも当てはめてしまっているのだろう。番組や映像作品のなかで赤いスイッチが使われる理由は人々にかたや緊張感、かたや興奮を促すからでありある種必然的な理由なのだ。

このような説明可能性がありながら掲出歌を面白くしている要素は何かといえば、やっぱり詠まれている対象がほかでもなく核である点だろう。「赤色と思う」という結句で腑に落ちるせいで忘れてしまいそうになるが、そもそも核というのがひょいと出す話題としてはあまりに重すぎる。
「核発射」のテーマの重さをもう一段階下げて「安楽死」に変えていた場合、この短歌は急に「そりゃあそう」な弱い短歌になってしまう気がする。ハザードランプや消火栓のボタンなどが赤いように、非常時に使うスイッチと赤色はすでに強く結び付いているから。

それは核であろうと同じじゃないかというと、核の話はやっぱりちょっと違ってくる。核や原爆にまつわる議論はこれまでなんどもされていて、ぼくらは幾度となく八月六日・九日へ思いを抱いてきたはずだ。そんな我々の重大な考察対象である核爆弾というモチーフを前にして身近なハザードランプとか消火栓のボタン、ましてやバラエティー番組や映画などからのアナロジーで、真っ赤なボタンを連想してしまっている。
掲出歌は単に発想のおもしろさで勝負しているんじゃない。大きすぎる核や戦争というもの、そしてそれらの大きさを理解していながらどこかで100パーセント真剣になることができていないぼくたち。それらへのシニカルな指摘が強烈なんだ。ぼくは国語が比較的苦手だったから、ここまで分解してはじめて、この短歌に内在する皮肉の正体に気づくことができた。


作歌7か月目にして山田航・著『桜前線開架宣言』を買った。最近になってこの本の存在を知ったというわけではない。以前から認識はしていて、いまの自分にぜったい必要だ、今度買おうと思っていながらなぜか忘れっぱなしだった。

なにを隠そう、今回の短歌も『桜前線』のなかで知った一首だ。

【土曜日に一首評】、三日坊主のぼくがどれだけ更新できるか自信はないけれど、ゆるくやっていきたいと思います。


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