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【土曜日は一首評】少しずつ嫌いに傾きゆく人に手品をわれは見せているなり/花山周子『屋上の人屋上の鳥』

この空の青の青さにやってきた屋上の人屋上の鳥

/花山周子『屋上の人屋上の鳥』

『桜前線』をたのしむときは、短歌の方を先に見てから、山田航氏の解説を読むようにしている(本の構成は解説→短歌の順になっているけど)。

今回、花山周子の短歌を読み終えたあとに彼女が美術大学出身だとわかって、やっぱりそうか、という気持ちになった。それはもちろん、彼女が絵画をテーマにした歌、たとえば〈デッサンのモデルとなりて画用紙に十字よりわれの顔は始まる〉とか〈美術館を巡り巡って落ちゆけるわが内臓は深海にある〉を詠んでいるからというのもある。んだけど、それ以上に、もっと感覚的に「ああこの人は美術を経て、短歌を詠んでいる人なんだろうな」というのを感じた。

〈この空の〉の一首。
一読して、学校やら会社やらの屋上だろうか、なるほど清々しい青空がたしかにみえて、そこにいる人や鳥がその青を求めるがごとくしてそこにいるように見える感覚に共感した。

どうしてなんだろう、文字であるはずのこの一首からちゃんと青が見えてくるこの感じ。少なくともぼくが自分の短歌に「青」と詠み入れたとして、こうはならない。もちろん言葉の巧みさもあるんだけど、言葉というレイヤーの前に、大きく鋭い色彩感覚を有していて、その感覚の下に言葉を操っている感じ。
ポケモンやってるときに、ジムリーダーを倒してバッジをもらわないと、一定以上のレベルのポケモンがいうことを聞いてくれないんだけど、その感じ。

(※ところであとからこの短歌の場面は、花山自身が美術大学への進学のために通っていた予備校の屋上だというのを知って、さらにエモいなってなった)

さて、掲出歌〈少しずつ嫌いに傾きゆく人に手品をわれは見せているなり〉。この歌はその美術の能力うんぬんとは違うんだけど、おもしろい一首だなと思う。

なんつったって、読めば読むほど、そんなはずないからだ。

手品を人に見せるときは、どんなときか。
プロの手品師は商売として手品を披露する。そういうときに披露する手品はどちらかというと一対多のイメージ。それなりの観客がそこにいる。観客を楽しませるためにやってるのは確かだけど、個々の関係性なんてマジで関係なさすぎる。そのお客さんに〈少しずつ嫌いに傾きゆく人〉がいようがいまいがなんだっていいだろ。別に。

素人ながらに手品を練習してみて、それを人に見せるとき。いや、それこそまさに、どちらかと聞かれれば好きであるような相手に見せるはずだろう。家族とか友達とか恋人とか。なぜなら手品をやるモチベーションは目の前にいる人に楽しんでもらいたいという思いだから。手品練習したぞー、嫌いな奴に見せるぞーなんてなるわけない。

てかそもそも〈少しずつ嫌いに傾きゆく人〉ってのが絶妙に嫌なモチーフすぎておもしろい。たぶん作中主体にとって元は中立かどちらかといえば好きな方だったはずの人なんだけど、なんとな〜く嫌なところとかが見えてきて、一回気になるとダメで、そっからどんどん嫌いになっていっちゃった感じ。なんか嫌だなってなるモチーフ(手品を見せるという下の句に取り合わせて違和感が生まれるモチーフ)として〈少しずつ嫌いに傾きゆく人〉を見つけた時点で、勝ちだなと思う。

そんでもって、結句の なり よ。

弟を如何に殺すか思案せし日々を思いぬ栗をむきむき
私と弟が言い争うとき母の集中力がアップするらし
スクリーンセーバーに泳ぐ魚が欲しいとぞ父はネットに探しいるなり

/同上 せし・ぬ・らし・なり

これは花山の批評の文脈において常套的に言われることでもあるんだけど、彼女の短歌にはしばしば文語が使われる。

初心者ながらに作歌において文語とか旧かなは安直に使うのは危険、という感覚はなんとなくあって、それでいうと花山の使う文語も完全に正しく使えているとは言い難い気がしちゃうんだけど、それでも使いきっちゃうことその態度自体、そして各短歌のなかで大袈裟とも思える文語の存在が各短歌のおかしみを増幅させている。そうなってしまえば、使ってしまっちゃったもん勝ちなんだろう。


さて花山は、〈この空の〜〉の一首のような鮮やかな自然詠を巧みにやってくる能力と、〈少しずつ〜〉の一首のようなすっとぼけた感じのおもろさをやってくるふたつの能力を併せ持っているとぼくは感じる。
第一歌集『屋上の人屋上の鳥』は860首掲載とのことだけど、これほど作歌における能力の幅の広さがあることを考えれば、それだけの規模の歌集を作れてしまうのも頷ける。

木村拓哉は知っている顔に似ていると考えて結局それは木村拓哉なり

/同上 おもしろすぎ

文フリの後、歌人として短歌の教養がもっとあった方が楽しいだろうなと思って『桜前線』を買ったり、インターネットに転がっている多くの歌人による一首評とか短歌史の解説を読み漁ったり、短歌新人賞の歴史を調べたりして、多少現代短歌史に詳しくなってはきた。

少なくとも、たとえば花山周子もその一員である短歌同人『外出』(内山晶太・染野太郎・花山周子・平岡直子)が、いかにすごい歌人が集まっている同人誌であるかくらいはわかるようになってきた。

文フリのとき、『外出』買っときゃよかったな。

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