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本当にやりたいことをみつけたい①|会社員~起業時代

ブランディングを生業に起業して3年目を向かえる私haruが、ビジネスを一から再構築して、新たなスタートを始める過程を、そのまんまお届けします。

といっても、「いまから何するねん」を伝えする前に、私がどれだけ、本当にやりたいことと出会うまでに、もがき続けていたのかを書いていきたいと思います。


本当にやりたいことを本気でみつけたかったのは、なにを隠そう私自身なのだ。



仕事にしたい「好き」じゃなかった

大阪モード学園を卒業後、アパレル会社の接客販売で就職しました。好きなことに関する仕事であれば、何処でだってたのしくできるだろう、と能天気に考えていたら大間違い。
私は、数字のプレッシャーにとんでもなく弱かった。
プラス、当時は自己肯定感が異様に低かったので、「精神的にしんどいのはぜんぶ自分のせい」と、さらに自分を追い詰めていました。
眠れなくなり、双極性障害と診断をもらってからは、睡眠薬とお酒を飲む毎日。地獄でした。
結果、身体がどんどん弱っていき、病気を理由になだれこむように辞めました。

好きから「好奇心」に変えてみた

そんな病み病みな私でも、大阪で一人暮らしをしながら奨学金を返し続ける身。仕事をみつけなければなりません。

次は、とにかくハードルを低くはじめたかったので、「パソコンを触る仕事だったら数字のノルマ少なそう!」と、事務員さん系で探していたときに出会ったのが、ナイトレジャーの店舗を複数展開する会社でした。

親に言いにくい(実際隠していました)、変わっている会社を選んだ理由は、私の好奇心がうずいたから。好条件や社会的な安定は、私の心を守ってくれませんでした。
まだ病み病みな私にとって、唯一の栄養分は、興味関心が湧き立つこと。これだけを考えて選びました。

好奇心は広がるものだった

入社時は、求人の窓口業務からはじまりました。
女性キャストの応募に対して、面接の確約までを案内するのですが、一般的な面接応募のような業務的なものではなく、コミュニケーションスキルが問われる、非常にやりがいのあるものでした。
なぜなら、応募者であっても、ほとんどの方にとっては、「本当はやりたくない」お仕事です。けれども様々な理由で働かざる負えない。
問い合わせひとつひとつに、緊張感と切実な思いが込められています。
なので、こちらの対応に誠実さが感じられなかったり、マニュアル的な返答をしてしまうと、不信感ですぐに連絡が途絶えてしまいます。
もちろん健全な会社だったので(笑)女性を悪いようにはしません。が、こうした業界は「怪しいもの、悪いことをしているはず」という偏った先入観が染み付いています。
「信用していない人に、どうやって信用してもらえるか?」これが、窓口業務から店舗運営すべてに共通する必要な問いであり、私の大好物な問いでした。(笑)

私の好奇心を育ててくれたひと

私の知的好奇心をみつけ、どんどん新しい業務を与えてくれたのが、当時の専務です。
結果、キャスト&スタッフの採用からマネジメント、求人広告のディレクション、キャストと裏方スタッフの育成、新店の立ち上げや営業サイトのリブランディング等々、本当にたくさんの人と関わるポジションになれました。
すべてが、私の好奇心をかき立てる時間でした。

勤務して丸5年、いまのブランディングやマーケティングスキルはすべて、専務のおかげといっても大袈裟ではありません。専務は、教科書ひとつ読ませることなく、「失敗してもええから」といつも打席に立たせてくれました。

ですが、2019年に入ってからの私は、なぞの違和感を感じるようになりました。これといった理由はないのですが、強いて言えば「3年後もここにいるイメージが沸かない」ということ。
それが、会社の規模を大きくする節目と重なって、その頃に専務は社長になりました。
社長になってからは、もっと先の未来を考えるような発言が増えてきて、それが私の違和感をより加速させてるものとなってしまいました。
当時27歳。怖いもの知らずのアホな私は、その違和感を「私はよくわかりません」と、まんま社長にぶつけていました。

これから会社がぐんと成長するタイミングで、5年かけて育ててきたヤツが急に態度変わるとか、私が上司でもいやだ(笑)
結局そこで喧嘩別れみたいな感じになってしまい、前職を辞めることになりました。
笑顔で別れられなかったのがちょっと後悔。けれど、会社に愛着を持ってしまっていた私には、あの形しかなかったんだろうなとも思います。

辞めたときは、「またマーケティングやブランディングのできる会社で勤めれられればいいや~」と軽く思っていました。

ナイトレジャーの壁

マーケティングの会社を調べたことがなかったので、転職エージェントに登録して求職活動を行いました。
担当してくれた方は、私のナイトレジャーでつくってきた広告やHPに、偏見なく「これだけ実績があればすぐ採用されますよ」とポジティブに背中を押してくれました。
が、しかし、一般企業が抱くナイトレジャーのイメージが良いものではないのだということを面接の空気感で、度々思い知ります。
もちろん理由はこれだけではなかったと思います。企業がほしかった人材と、私の個性的な思考(笑)が合わなかったことも大いにあります。

この就職活動で、もう一つわかったことは、私は、実践を積み重ねてきた自信はあるものの、この求人活動の中で、前職でしてきた業務を「ブランディング」ということや、私が制作する上でやっていたポジションが「ディレクター」という名前だったことを初めて知ったくらい、知識が追いついませんでした。

アパレル業界に戻る

面接まで進めど、手ごたえがなく不採用される日々に焦りがでてきました。生活をまわさねばなりません。
精神を病んで辞めてしまったアパレルで、もう一度働くことにしました。選んだのは、前から興味のあったファストファッション。しかし入社初日の朝に事件が!謎の全身蕁麻疹&目が子泣き爺のように膨れ上がったんです!
身体はほんと正直。
行きたくなかったんだね、無理させてごめんよ。

何とか子泣き爺は治まったのですが、蕁麻疹は止まりません。次は、ファストファッションの逆。「むっちゃ高級なところでやってみたい!」好奇心から、ラグジュアリーブランドへ移動します。
ラグジュアリーブランドでは、蕁麻疹も無事引いて、大変だけどやりがいもありました。職場は、ここで落ち着いた感じです。

自分と向き合う

アパレルの派遣をはじめた辺りから、私は自己啓発の世界と出会います。
自分がなにをやりたいのか、何が好きで、強みがなんなのか、いままで考えたこともありませんでした。
といっても、どうやって調べれば、自分が知りたいものと出会えるのかもわかりません。
なんとなーく「朝活ってそういう勉強やってそう」とひらめいた私は、即行動!自己を啓発するおもしろさと初めて出会いました。

鮮明に覚えているのが、梅田で20人程が集まったセミナー体験会。初めて人前で「私はやりたいことを探したくてここに来ました」的なことを言ったら、主催のヒロさんが「うん、いいね。できるよ」とさらっと肯定してくれた。
何気ない相槌ですし、深い意味とかそんなのなかったはずなんですが、人生で初めて挑戦したい意欲を、人前で言って「いいね」といってもらえた経験は、確実にいまの私をつくりあげています。

その後、人間心理学センターピースをかめちゃんから学んだり、自分の身体の不調から、池川先生の胎内記憶講座を受けたりする内に、年齢も職業も関係ない、お互いを高め合うことのできる、たくさんの友だちと出会うことができました。

向き合った先に起業が見えてきた

私は学び続けることで、知らなかった自分がみつかる喜びや、いかに自己否定をしていたか等々、自分のことを少しずつですが理解するようになってきました。
しかし、「やりたいこと」は一向にみつかりません。気配すらありません。
そこで、学び仲間へ向けて発信を始めました。過去どんな仕事をしてきたか、その中で何が好きだったのかを、とにかく言葉にしていったんです。

何をいっていたのか記憶は曖昧ですが、とにかく「私はこれができます!あーつらい!なんでやりたいことがみつからないんだろう!でも!いつか叶うかもしれないから!今日も発信します!」と。
いま思うとかなり暑苦しい訴えだったと思います。

でも、そのおかげでゆもっちと出会うことができて、ゆもっちが当時困っていたマーケティングのお手伝いをはじめました。このとき経験した、誰かの役に立てているよろこびは忘れられません。
そんなときにコロナが起こりました。

コロナで強制終了

コロナが中国でみつかってから、マスクを着けだしたり、営業時間が短縮になったり、世の中全体が変わっていく過程を、百貨店で勤務していた私はダイレクトに経験できました。
そして百貨店の長期休館により、派遣契約の私は辞めざる負えない状況になってしまいます。

このときばかりは、「やりたいことみつけるぞー!」なんて言ってる場合じゃない。コロナ化でも働ける事務職は、接客業からあふれた人で争奪戦。
このときはまじで焦りました。
ようやく採用が決まった先は、ヤマトのコールセンター。採用されてホッとしました。
実際やってみると、どうやらアパレル以上に向いていたようで、起業する寸前までここのコールセンターで勤めることになります。

次回は、起業してから現在に至るまでをお届けします。
ここまで読んで頂きありがとうございました。

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