電話
まだ携帯電話は普及していなかった。
家の電話が世界への窓だった。
子どもだったので、自分で世界を見にいくことはできなかった。母にかかってくる電話だけが、母の世界をかいま見せてくれた。
男の声、女の声。向こう側を本当の場所として想像したことはなかった。ただなにもないまっくらな空間に、声だけが泡のように浮かんでいる世界。
それが母の世界だった。
いつもなぜか母がすこし家をはなれているすきにかかってくる電話があった。
年老いた女の声。
お母さんはいるかい。
いまはいない。でも、少し待てばかえってくる。
そう言っても、いやいいよ、またこんどかけるから、とだけ言って切ってしまう。
それが何度かつづいた。
かえってきた母にその話をすると、母は最初の何回かはふしぎそうな顔をしていたが、そのうちに納得したようで、はいはい、あれね、わかってるからだいじょうぶ、とおざなりな返事をするようになった。
ある日、またその電話がかかってきた。
変に感じた。いつも母がいないときをねらったようにかかってくるのに、と。
母は家にいるとおもっていたのだ。
母をよんだ。返事がなかった。
電話を一度おいて玄関にいってみた。靴がなかった。どこかに出かけたのだ。なにも言わずに。
電話にもどって、相手につたえた。
母はいまいない。どこにいったかわからないから、いつもどってくるかもわからない。
すると、その年老いた女はこういった。
じゃあ、いまからそっちにいくよ。
そして何かを聞きかえすひまもなく、その電話はきれてしまった。
部屋のそとの通路をあるく音がした。
ドアの鍵をあける音、そしてドアがあく音がした。
ひどくびっくりして、受話器を取り落としてしまった。その音を聞いてあわててかけよってきたのは、母だった。
また、あの電話あそびをしてたのね。
いまおこったことをなんとか説明しようとおもっていた気力が一気に萎えた。
母にとって、電話の向こうの老女は、子どもが頭のなかで考えだした架空の話なのだ。
しかし、あの声と話しているときの受話器からは、まっくらな空間の声の泡のなかから、なにかがずるりと這いだすときのにおいが、たしかにしていたのだ。
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