乳歯

抜けた歯を投げ上げる屋根なんてなかったし、下に落とせば誰かの上に落ちるかもしれなくて危なかった。

あの頃は「歯の妖精」なんて西洋の概念も知らなかった。

そしてなにより、抜けた歯をなくしてしまうのがひどくもったいない気がしていた。だからすべて大切に瓶の中にしまっていた。

寝ている間に抜けてしまうと呑んでしまうかもしれないから、血まみれになりながらむりやり抜いた。

おかしな子どもだ。

先日、そのことを思い出して引き出しの中を探してみた。ずっと忘れていたにも関わらず、あの瓶をいまだに持っていた。

振るとからからと音がする。

幼い日の思い出の音だ。そう思った。

ふたを開けて、手のひらに出してみた。信じられないほど小さく思える可愛い歯がころころと転がり出てきた。

一つ、二つ、三つ。

奥歯、前歯、糸切り歯。

いくつもいくつも出てくる。

おかしい。

乳歯は確か20個のはず。

歯はすでにそれを超えて、30個に到達しようとしていた。

頭が二つある歯、根が無数にある歯、見たことのない歪な歯、歯、歯。

あわてて歯を瓶に戻し、ふたを閉め、引き出しの中に放り込んだ。

そして懸命に忘れようとした。二度と思い出さないように努力しようとした。

しかし頭の内側に無数の歯が生えてくるイメージから逃げることはできなかった。

抜いても抜いても生えてくる歯。

抜いても抜いても生えてくる記憶。

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