見出し画像

誰も隣に居てはならぬ?「無鄰菴」

京都の南禅寺の近くに「無鄰菴」という建物があります。
こちらは歴史の教科書にも登場する山縣有朋の別荘だった建物です!

「山縣有朋って誰?」と言うそこのあなた!
大丈夫です!私も知りませんでした😅
歴史の授業中何してたんだろう?私・・・

さて、今回はこの無鄰菴をご紹介するのですが
「名は体を表す」という言葉があるように
この建物の無鄰菴という名は山縣有朋の人生を表しているんじゃないか?
と私は思うのです。

では、歴史オンチによる偉人の話を始めましょう!


山縣有朋とは


1838年、長州藩(現在の山口県)の萩で生まれ
松下村塾で学び、騎兵隊で討幕に奔走し
維新後は徴兵令を制定するなど近代陸軍を創設。
第三代、九代内閣総理大臣
日露戦争では参謀総長を務めた
伊藤博文と並んで明治政府の最高指導者だった人です!

色々と賛否両論ある方ですが
一方で家を建てたり修理することを楽しむ(普請道楽と言うらしい)という一面があり
東京にあるホテル&式場の「椿山荘」
実は山縣有朋の本邸の名前で
運営側と山縣家は全く関係ないのですが
「椿山荘」と言う名前を聞くだけで「超一流の建物と庭」と認識されるから名前だけ受け継いでいるのだそうです。

建築家だったとしても成功していたのでは?と言われているほど
建物にはこだわりがあったようです!

無鄰菴という名前


そんな普請道楽の山縣有朋が建てた無鄰菴は
広い庭と和館と洋館、そして茶室という構成の邸宅。
和館は1896年(明治29年)
洋館は1898年(明治31年)に建てられました。

この「無鄰菴」という名前は3回使われていて
元は故郷の長州で建てた小さな家に
隣家の見当たらないほどの閑静な田舎という意味で付けた名前。
よほど気に入った名前らしく
今紹介している無鄰菴ともう一つあった別荘にもそう名付けたそうです!

近代日本庭園の傑作
と言われるこの庭。とても居心地がいい☺️

どこまでも続いてるんじゃないかと錯覚する

そんな庭を造ったのは伝説の庭師と言われる
七代目小川治兵衛。
メインに芝生を使った日本庭園は当時とても珍しかったようで
さすが伝説の庭師!
となるんですが、細かく指示を出したのは山縣有朋で
小川治兵衛の才能を引き出したのでは?とも言われてます。

遠くまで見渡せる広い庭はまるで里山。
故郷の長州で建てた無鄰菴もこんな景色だったから再現したのかもしれませんね。

庭を流れる小川は琵琶湖疏水


え?洋館??蔵じゃないの??

パッと見、蔵なんですよ。

蔵って物置きみたいなもので田舎の農家の家にはよくあるんです。
実際私の実家にもあって、暗くて埃っぽくて今だに中に入ったことがない
それくらいパッとしないものなんですが
中に入って2階に上がるとこんな豪華な部屋が現れます!

写真ではわかりにくいですが壁は一面金箔が貼られています

実はこの部屋、歴史の中で重要な会議があった場所なのです!
それは「無鄰菴会議」と言われ
1903年(明治36年)4月21日
山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4人が対ロシア戦略を話し合い
ここから日露戦争へと進んでく起点となりました。

立派すぎる格天井

建築家で建築史家の藤森照信先生の本によると
この洋館が建てられたのは和館より2年後で、
こんな物置にしか見えない蔵の中に豪華な応接室を作ったのは
政策や外交などを話し合う機密性の高い場所が必要になったからではないか?
と書かれています。
確かにまさか蔵の中で国家の行く末が話合われているなんてまず想像できません!

無鄰菴 2つの意味


ここまでをまとめると「無鄰菴」という名前には
2つ意味があるように思えます。
故郷長州の田舎で隣家が無いという意味と
誰にも聞かれてはいけない会議の場という意味

おそらく最初に名付けた時は
この広い庭のような長州の穏やかな里山に愛着を込めたものだったはず。
しかし政治のトップになり
隣に誰も居てはいけない機密性の高い場所という意味へと変わる。
この「無鄰菴」という名前は
山縣有朋本人も予想しなかった自分の人生の行く末を最初から表していたのかもしれませんね。


Information

と言うわけで
近代日本庭園の傑作と言われる庭と
煌びやかな応接室を実際に見学に行ってみましょう!
和館の方ではお茶やお菓子がいただけるそうですよ😊

所在地  京都市左京区南禅寺草川町31番地

公式サイト↓



ここまで読んでいただきありがとうございました😊
また次の記事も読んでくださいね!それでは👐

この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

サポートしていただけたら飛び上がって喜びます! いただいたサポートは建物探訪の交通費として使わせていただきます!