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角川「俳句」六月号の俳句鑑賞

 今回は、俳句雑誌のひとつ、角川「俳句」より、いくつかの句を紹介したい。選句と解釈は、私の主観であり、いわゆる独断と偏見がみられるかもしれないが、そのことでかえって新しい視点をもたらすという僥倖もあり得るのではないかと思い執筆した。皆様のご参考になれば幸いである。


 海を曳く地球柔らか青嵐 「青嵐」対馬康子

 山々が青葉を蒼天に広げ、盛んに揺らしている頃、海の波は白銀のように輝いている。その波は立っては消え、消えては立ってを繰り返している。まるで、地球が海を引っ張っているかのようである。
 本句の要諦は、「柔らか」という措辞である。物質としてみれば、地球は柔らかいというより、硬いだろう。しかし、海という流体、つまりこの碧き美しい地球とみたとき、総体として柔らかく感じたのである。冬の日本海のように荒れているのではなく、また春の海のように「のたりのたり(蕪村の句『春の海終日のたりのたりかな』)」しているのではなく、海面が牽引されるような柔らかな動きのある表情なのである。地球の自転運動に血の通った温かさが感じられてくる。そして、青嵐の力強い動きが一句を締める。技術的な点を述べると、中七の「か」で切れる。海の情趣は季語の青嵐と心地よく響きあっている。海、地球、青嵐、の大きな景が、青天井の夏を予祝しているようではないだろうか。


 いつ影と入れ替りしや夏の蝶 「山川草木/悉皆成仏」仲寒蝉

 日の光が燦々とふりそそぐ夏野に蝶が舞っている。じっと眺めていると、いつのまにか蝶とその影が入れ替わっていた。
 実と虚の対比、そしてその統合に作者の驚きがある。科学的視座に立てば、影法師のように強い日に惑わされて、蝶もその影も判別がつかなくなるだろう。しかし、それだけでは説明に過ぎず詩情は宿らない。重要なのは現象の裏にある命の哲学である。私の解釈では、影は死を暗示する。いっぽう実体としての夏の蝶は、春よりも活発に動き回り、命の躍動感が鮮明である。ただし、蝶の舞い方はひらひらと、わずかな危うさも感じさせる。蝶のつくり出す影は命と背中合わせの死である。幻想的な主観に終止せず、ひとひらの夏の蝶に、命の働きを見出した句であるといえるだろう。


 山椒魚岩と化すため岩登る 

 山椒魚(サンショウウオ)が水中より這い出て、その体躯をひねりながら岩をよじ登る。まるで岩と同化するように、否、岩そのものになるかのようである。
 中七の「岩と化すため」は、俳句にみられる飛躍である。当然ながら、山椒魚が岩になることはない。この飛躍を陳腐にさせないためには、新規性のある気付きであること(すでに多くの人々が気付いて句にしていることに新規性はない)、多くの人々が理解できる普遍性を有することが求められる。山椒魚がいつの間にか岩になるかのようにみえた気付きは新規性があるうえに、あの外見から誰もが共感できるだろう。また、山椒魚と岩が切っても切れない縁によって結ばれている自然界の法則も暗示されている。
 俳句は芸術の一面をもつため、技術に焦点をあてて鑑賞したくはないのだが、型の文芸という言葉もあるように基本技術は不可欠である。ただし、このことは俳句特有の話ではなく、小説にも書き方の技術があるように何事においても基礎は大切であるだろう。それらを身に着けたうえではじめて自分なりの文学表現が生まれるのではないだろうか。本句は平明であり、誰でもつくれそうと思うかもしれないが、揺るぎない基礎に裏打ちされたプロのなせる業である。


 しあはせの新玉葱を刻みけり 「日々抄」西嶋あさ子

 新玉葱をまな板にのせ、いつも通りにとんとん刻む。このいつも通りのことに幸せを感じ、果ては新玉葱そのものまでもが幸せの象徴に思えた。
 「しあはせ」と意図的に古風な表現にしており、新玉葱の「新」との差に面白さがある。また、私事で恐縮であるが、かつて調理に携わっていたこともあり、新玉葱という素材そのものに幸せが秘められていることは大変共感できる。切った瞬間の感触、みずみずしさ、断面の白さ、香りは確かに「しあはせ」である。それでは、例えば、ほうれん草はしあはせではないのか、と思われる方は、置き換えてみてほしい。何かしっくりこないのではないだろうか。意味、概念のみならず、音韻は殊に重要である。上五の「し」、中七の「し(新)」、下五の「き(刻)」、とすべてi音である(頭韻法という)。かくして、音の調べが良いことにも注目したい。ちなみに、欧米の詩歌やシェイクスピアの戯曲等は、言語の性質も相まって脚韻法(行の末尾に韻をふむ)がみられる。


 イシクラゲ戦火の島の骨に生き 「風土吟詠 沖縄県」野ざらし延男

 イシクラゲが骨に着生している。この島、沖縄はかつて戦火に包まれたのであった。
 本句は、その背負う歴史の分だけ重くなる。イシクラゲは陸棲藍藻の一種であり、外観は若芽のようである。雨に濡れるとその水分を体内に取り込み膨れる。ぬめりもあり、やや不気味な印象である。そのイシクラゲが、人骨(人以外の動物かもしれないが)に着生しているというのである。骨は死の象徴ともいえる物であるが、本句においては、その亡骸に奇妙にも命が感じられるのは私だけだろうか。イシクラゲが骨の上にいることは偶然かもしれないが、骨に刻まれた戦火の歴史を我々に喚起させるかのように感じるのである。イシクラゲの生は、骨の死にたしかに寄り添い、戦火の島・沖縄に今日も根付いている。
 「イシクラゲ」という片仮名表記は硬質で冷たい。それは、戦火の遺志と溶け合い、悲しくも美しい詩情を醸し出している。


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