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【俳句】新年詠の鑑賞

 新年、開口よい言葉で始めたい。親戚が集う、旧友と会う。仕事のかたもいるかもしれない。去年と今年の境目は、自然科学の目でみれば、連続したひとつの点だが、何か特別な瞬間をみいだすのが文化である。文学である。
 俳人の虚子きょし(正岡子規の弟子)は、「去年今年こぞことし貫く棒の如きもの」と詠んだ。棒は時間軸の意のみならず、伝統文化の本義、その地で生き続けてきた人々の志を表しているように思えてならない。宮中の歌会始うたかいはじめもそのひとつだろう。

 言葉は情報の単なる伝達手段に過ぎないだろうか。万葉時代の歌人・柿本人麻呂かきのもとひとまろは、歌のなかで「言霊のさきはふ国」といった。言葉のもつ特別な力により幸せをもたらせられる国というような意味である。日本に生まれ、日本国籍を有する者としては、その日本語の力を信じたい。もちろん、世界中のどの言葉も本質は共通しているはずだ。ゆえに西洋にも美しい詩など、すばらしい文化がある。
 
 短歌、俳句は日本語のもつ力を凝縮していると私は思う。無駄を省き、音数を最小限にとどめる。もっと言いたい、もっと伝えたいことを読者の頭のなかに余韻として響かせる。言霊の本質は言葉によって表現しえないが、何かいいなと思える感覚を大切にしたい。それはこれからの文化の底流をなすのだと思う。

 今回は、歳時記の例句や俳句月刊誌より、古いものから、最新の発表作までいくつか紹介し、私独自の解釈を述べていく。あくまで個人の感想であるため、ご参考程度にお読みくだされば幸いである。
 

去年今年月浴びて山睦み合ふ  井上康明

角川俳句歳時記第五版・新年

 季語は、去年今年こぞことし。角川歳時記さいじきの説明によれば、「元日の午前零時を境に去年から今年に移り変わること。年の行き来がすみやかなことへの感慨がこもる。去年も今年もという意ではない。」
 元日の午前零時、甲斐の山々は月光を浴びるように照らされながら、互いに親しく寄り合っているようだ。作者の井上康明氏は、山梨県の俳人であり、飯田蛇笏、飯田龍太、福田甲子男、廣瀬直人を師系とする甲斐の自然詠を継承されている。
 睦み合う山々は、去年今年の一瞬間を共有する我々人間のようだ。寒いはずなのに、それらを包み込む月光はなぜか温かさが感じられる。

影といふものまだ曳かず初明り  鷹羽狩行

角川俳句歳時記第五版・新年

 季語は初明り。角川歳時記の説明によれば、「元日に東の空からほのぼのと差してくる曙光。荘厳な光に新しい年の始まりを実感する。」
 ”影といふもの”と、曖昧な表現をしているように、曙光のみの景は、影もそれらしきものさえもない。初明りの、縁起のいい、生き生きとした光は決して主張し過ぎず、控えめなのだ。影は物質的な意味のみならず、社会の影をも感じさせはしないだろうか。初明りは、「影」さえもつくらない神々しい光にみえてきた。

奮発の伊勢海老の朱のそれなりに  宇多喜代子

角川俳句令和四年一月号・新年詠七句『春着』

 奮発して設えた立派な伊勢海老。ぐつぐつと丁寧に火をいれ、たいへん色鮮やかになると思いきや…。それなりの朱色であった。
 俳句の要諦のひとつは「笑い」と「発見」である。伊勢海老の朱色は鮮やかになるに違いないと思いがちなのだが、おせち料理の並ぶ正月ではその限りではないのかもしれない。それなりの朱色であった点は大きな発見だ。なぜならば、”それなり”とは曖昧な表現でありつつも、主婦の実感として的を得ているからである。
 また、”奮発”と”それなり”の落差が笑いを誘う。
 愛情をこめて料理をつくる人の姿が浮かんでくる。そして、それを待つ家族の姿も。あたたかく目出度い正月の雰囲気だ。ちなみに、季語は伊勢海老。いつでも食べられる時代だが、新年にふさわしい風格である。

息吸うて一身の浮く初湯かな  今瀬剛一

角川俳句令和四年一月号・新年詠七句『淑気』

 季語は初湯。角川歳時記の説明によれば、「新年になってから初めて風呂を立てて入ること。(中略)若湯とも呼ばれ、若返りの願いもこめられた。」
 大きく息を吸うと、身体がふわりと浮きあがる。この現象は、初湯でなくとも起こるのだが、俳句という詩型においては、初湯でなくてはならない。新年の幕開けを祝う特別な風呂であるからこそ、淑気を大きく吸い込み、その身体が浮くのだ。心も軽くなるようではないか。

病ひとつ太陽ひとつ去年今年  大木あまり

角川俳句令和四年一月号・新年詠七句『嫁が君』

 名詞を三つ並べただけの句だが、立ち上がってくる景は重く哲学的だ。病は永遠に続くとも思われる人類にとっての大きな難題である。”病ひとつ”はきっと大きな病気に違いない。
 赤ん坊が産まれてからずっとそこにある”太陽ひとつ”。それと病を並べることで、難病と長く付き合ってきたその人の歴史を感じる。去年と今年の移り変わるこの瞬間でさえも、病から逃れることはできない。しかし、それは諦念だろうか。いや、今年もまた強く生きていくことの抱負ではないのか。病があったからこそ、今の自分があると、達観した思いもみえてくる。それでも、第三者として読者である私は、今年こそは治ってほしいと思えてならない。

金色の土佐の沖なり鯨馳す  中村和弘

角川俳句令和四年一月号・新年詠七句『神馬』

 季語は鯨。歳時記によれば、新年ではなく冬の分類。金色は”こんじき”と読むと思う。俳句は勿論のこと、文学は音読したときの美しさも重要だ。
 土佐の国は、今の高知県にあたる。その沖は、陽光を帯び、金色に輝いている。大きな鯨が潮を噴き上げながら駆けている。”す”とは、走る・駆けるの意味である。
 ”金色の土佐の沖なり/鯨馳す”と、”なり”の後ろで句は切れる(乱暴な言いかたをすれば、散文でいうところの句点・丸のような意味)。鯨の勇壮なる姿を活かすためには、”なり”と強く切る必要があるのだ。
 金色、土佐、なり、鯨馳す、と並ぶ、力強い一句である。新年の抱負に相応しい力だ。

初日いま真白き山の上とほる  長谷川櫂

角川俳句令和四年一月号・新年詠七句『浅間山』

 季語は初日。角川歳時記によれば、「元日の日の出、または、その太陽。」
 元日の太陽が今、冠雪した真っ白な山の上を通る。
 平凡な風景描写ではない。おそらく一際高い山のてっぺんを、ちょうど、初日が通りかかる瞬間を捉えた句なのだ。”いま初日”ではなく、”初日いま”と倒置して、五七五音の冴えが心地よい。
 山の白と、太陽の赤で、紅白などという狙いはないと思うが、深く読もうとしている私はそう考えてもみたい。詩の深読みは誤読のおそれもあるため、慎重にしなければならないが、本稿は感想であるためご容赦願いたい。

天領の風引き絞る弓始  寺井谷子

角川俳句令和四年一月号・新年詠七句『弓始』

 季語は弓始ゆみはじめ。角川歳時記によれば、「新年に初めて弓を射ること。宮廷行事であったが、武家の行事として引き継がれた。(以下略)」
 今の時代、和弓は武器ではなく、神事につかわれるものと考えていいだろう。弓を射る姿は凛として美しい。そこに神聖な働きが宿っても不思議ではない。力が蓄えられ、一気に解き放たれる。掲句では、引き絞るのは”天領の風”だという。射手は、自然と一体化する。八百万の神々の働きさえも感じられてきた。



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