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【随筆】米津玄師の歌にみる短詩型文学

 歌は旋律のみにより評価されないだろう。作者からも、映像からも独立した純然たる言の葉として相対したとき、秘められた言霊が真に立ち上がってくるのである。

 本稿は米津玄師氏の歌を主に俳句の視点で、私個人の感想を述べたものである。ウェブ上では既に、歌の解釈を巡り多くの評論が発表されている。それらの解釈の上書きにならないよう、一俳人が前提知識なく歌詞(テクスト)と相対したときの気付きを述べ、新たな議論の端緒となれば幸いである。また、米津玄師氏及びその関係者へ最大限の敬意を表して執筆したつもりである。万一失礼な点のあった場合は心よりお詫び申し上げたい。尚、本稿に鑑賞対象の歌詞全文を掲載していない(一部分のみ、Uta-Net様ウェブサイトより引用した)。全文は、ウェブ上に公開されているため、そちらをご参照願いたい。


 米津玄師(よねず けんし)は、シンガーソングライターである。その他、イラストレーターや音楽プロデューサー等多くの現場で活躍しているそうである。
 実をいえば、私は氏の経歴や人自身について詳しくない。氏の有名作のひとつ『Flamingo』をはじめて聴いたとき、この歌の作者は俳句を知っているに違いないと感じ、大変興味をもったのである。
 
 本歌『Flamingo』は、脚韻をイ音(i)に統一している。脚韻とは、歌の句末を同音にそろえることである。一般的に俳壇においては、ア音(a)は口を大きく開いて発声するが、イ音(i)は口を閉じ気味に発声するため、快活で明るい雰囲気とは逆の印象を与えるといわれている。脚韻をイ音(i)に統一することで、『Flamingo』に通底する退廃的な世界感と響きあう効果を意図したのではないだろうか。本歌の冒頭「宵闇に(ni)/爪弾き(ki)/悲しみに(ni)/雨曝し(si)/花曇り(ri)」と、すべて母音のiに揃っていることがわかる。この韻は歌の最後まで続く。
 脚韻法は、一部であれ『感電』『LOSER』『Lemon』など多くの作品にみられる。勿論、米津玄師作品に限らず音楽業界では当たり前の技巧だと考えられるが、『Flamingo』における歌そのもののもつメッセージ性とうまく溶け合っている点と歌の始めから終わりまで続く点はユニークである。ここでは詳しく述べないが、椎名林檎の『丸の内サディスティック』、サザンオールスターズの『愛の言霊』も表現したい世界観と歌詞(言葉の選び方と音韻)が最適に響きあう歌であるといえる。

 『Flamingo』に話を戻すと、歌のなかに俳句の季語が効果的につかわれている。以下に示した通りである。季語の説明はNPO法人「きごさい」(季語と歳時記の会)のネット歳時記より引用した。

宵闇
仲秋の季語。十五夜の名月を過ぎると、月の出は次第に遅くなっていく。従って宵の時刻の空の暗さがひときわ感じられる様をいう。(きごさい歳時記より)

花曇り
桜が咲く頃の曇り空を言う。雲が低く垂れ込めるほどではなく、比較的明るい曇り空である。太陽に暈がかかることもある。「養花天」は雲が花を養うという発想から生まれた言葉。(同)

鼻垂らし(水洟)
冬の寒い時、風邪を引いていなくても、鼻の粘膜が刺激されて水のような鼻汁が出る。これが水洟である。(同)

薄ら寒い(うそ寒)」
秋半ばから晩秋にかけての、うすら寒い感じのこと。「うそ」は「薄」を意味する。やや寒、そぞろ寒と似たような寒さではあっても、気分的な違いがある。(同)

氷雨(雹)
積乱雲から雷雨に伴って降ってくる氷塊。大きさが鶏卵大のものもあり、人や動植物に被害を与えることも珍しくない。(同)

ねこじゃらし(狗尾草)
イネ科の多年草。全国どこにでもみられるイネ科の植物で、細い茎の先端につく長い毛のあるふさふさとした穂が、小犬の尾のようだというので名がついた。ねこじゃらしともいう。晩秋になると葉も紅葉して美しい。(同)

 以上の季語より、暗く(光がない)、寒く、寄る辺のない空気感が醸し出されている。

 本歌のタイトル『Flamingo』は、鳥の一種としての明確な意味よりも、音の調べから採用されたものと考えられる。歌のなかに、「へらへらり」「ふらふら笑って」「ふわふわ浮かんで」とオノマトペが繰り返され、「フラ」ミンゴの調べに響かせているようである。フラミンゴの一語も複数回繰り返されている。そして、フラミンゴの細くしなやかな足や首は前述の音韻の情趣と程よい距離感があると捉えられるのではないだろうか。そして、歌のなかの以下の言葉、「ベルベットのまなじり」「唐紅の髪飾り」「闇雲に舞い上がり」「狼狽に軽はずみ」「昼鳶」「酔いどれ」「ねこじゃらし」「猿芝居」といずれも「フラ」ミンゴに共通するイメージが細い糸で結ばれているように思えてならない。要するに、ふらふら、ふわふわ、ひらひら感が共通していると感じたのである。俳句においては、これらの共通項の提示がわざとらしかったり、あまりに在り来りな組み合わせだとよくないとされる。氏の言葉の選び方は俳句としてみても、大変良いと感じる。

 また、歌全体に通底する女性性にも注目したい。「爪(弾き)」「まなじり」「ベルベット」「髪飾り」「恋敵」「あなた」「寂しさ」「嫉妬」「あたし」「はにかんだ」「ねこ(じゃらし)」「もっと大事にして」と女性を連想させる言葉が多くつかわれている。最後の方に、「酔いどれ張り子の物語」とあり、フラミンゴの羽根の華やかさが、酔いどれ張り子の「虚仮威し」な面を象徴していると考えられはしないだろうか。つまり、歌のなかの主人公といえる存在は、「フラミンゴ」のような女性なのである。フラミンゴの鳥としての次元を超えた言語感覚が本歌の骨子であり、米津玄師のセンスである。いわば、本歌の「フラミンゴ」は米津玄師の創造した新しい言葉(フラミン語とは駄洒落)、世界なのである。それが、社会風刺なのか、独立芸術なのか分からないが、不思議と訴えかけてくる何かがある。短詩型文学においては、それを詩情と呼ぶ。

 
 次に、『海の幽霊』についてみていきたい。本歌は映画の主題歌になっているそうである。私はその映画を観たことがないため、知識・先入観なしにテクストの鑑賞ができるため都合がよい。
 まず、たいへん綺麗な歌の印象である。負の言葉がつかわれていない点は、俳句の感覚に近い。短詩型文学は、基本的に負の言葉は存在しない(例えば歳時記に登録されている言葉は自然を美しく把握するものばかりである)。勿論、人の心が主たる文学であるため、死や病気、憎悪、嫉妬などの意思、言葉はある。ただし、それらは直接詠われずにオブラートに包まれている。その工夫により、透明感のある詩情にまで昇華されているのである。『海の幽霊』と話は逸れるが、例えば、夜空に雲が厚く立ち込めて月が全くみえなくとも、「無月」といってその美しさを愛でるのである。それが、俳句や短歌らしい言葉の感覚、感性である。

 また、『海の幽霊』に通底する美しさは、ひとつに何らかの死を暗示させている点にあるのではないか。死はそれのみに強い詩情を内包する。冒頭の「開け放たれたこの部屋には誰もいない」、最後の「風薫る砂浜でまた会いましょう」の二文より、誰かに逢いたい気持ちが強く表れている。相聞歌なのだろう。注目すべきは、その逢いたい人はどうやら幽霊になってしまっている点である。「潮風の匂い」「風薫る」と視覚ではない感覚、嗅覚に重点が置かれている。幽霊とは死者である。やはり、死があるようだ。「夏の日に起きた全て」「思いがけず光るのは海の幽霊」と、夏のとある日に死別してしまったのか、それとも死者との再会があったのだと考えられる。「幽霊」の一般的な定義からは離れ、「潮風の匂い/滲みついた椅子がひとつ」から始まり「大切なことは言葉にならない/跳ねる光に溶かして」と間接的に美しく描写されており、死者、幽霊は精霊、魂に近い感覚でつかわれているのではないだろうか。

 また、情景の描写において「茹だる夏の夕に梢が船を見送る/いくつかの歌を囁く花を散らして」と花をつけた木々が美しく擬人化されている。映画の舞台がどこであるのかわからないため、私の勝手な想像なのだが、夏蜜柑の花と考えてみたい。茹(う)だるとはやや聞きなれない言葉だが卵が茹(ゆ)だると同じ意で、身体が茹だってしまうほどの暑さである。風薫る頃や夏蜜柑の花咲く頃とすれば、初夏であるため、実際の暑さよりも、燃えるような夕焼けに重点を置いた表現だと考えられる。揺らぐ水平線と共に小さな漁船がみえる(白帆の小ぶりな船が歌の本意に合いそうだが、こじんまりした漁船のほうが現実的でかえって他が映えるだろう)。そして、風薫る頃に咲く、歌を囁くような花弁である。夏蜜柑の白く小さな花弁が穏やかな潮風に”歌を囁くように”舞い散る。柑橘のさわやかな香りまで漂ってくるようである。
 いずれにせよ、大変美しい景色である。三島由紀夫著『潮騒』との響きあいを感じてしまうのは私だけだろうか。

 以上、主に『Flamingo』『海の幽霊』について私の感じたことを述べてきた。ここでは語りつくせないほどの魅力的な歌である。私の気付いていない、読者皆様の感じている魅力も多くあるだろう。
 時に、自身の気に入った歌を深く鑑賞してみると面白いかもしれない。

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