「音楽は心の貯金」
作曲家すぎやまこういち先生は
「音楽は心の貯金です」
と言った。
たぶん、あらゆるものが「心の貯金」になりうるんだと今思った。
「貯金」というより「貯心」かもしれない。
そしてそれは、魂みたいなものに記憶されてるんだと思う。よく分からないけど。
そしてそれは長い間忘れることはなく
時と共に心層領域に沈んでいってるだけの様な気がする。
だから一時は思い出せなくても、何かキッカケがあれば思い出せるんだと思う。
だけど、キッカケがないと思い出せないこともある。
そのキッカケは、誰かが投げかけてくれた質問かもしれないし
毎日書いている日記の最中に思いついた自分への質問かもしれない。
だから感動した思い出(心の貯金)そのものも貴重だけど
あぁそう言えばあんなことあったな
と思えるキッカケは「思い出の鍵」みたいなもので、それもまた貴重なんだと思う。
そう考えてると、キッカケ無しでいつまでも覚えている事・物・人・言葉などはある意味とてもすごいことかもしれない。
絵画、音楽、詩、などあらゆる芸術は、たぶん「思い出の鍵」の役割を果たし、それが「共感させる」要素の一つになっているんだろう。
「子供が描いた絵」を観た時には、
自分の「こども心」を思い出し、激しい叫び声のロックを聴いたときは、辛さをバネに乗り越えた「心」を思い出しているよな気がする。
また何度も「記憶再生」するということは
「現在意識」が何度も「過去の記憶」にフォーカスされているということなのだと思う。
「脳内録画」した「楽しい思い出」を
何度も何度もリピート再生している状態とも言えるかもしれない。
「楽しい思い出」は、思い出すと再び楽しさ感じられる。
でも「辛かった思い出」は、思い出す度に再び辛くなってしまう。
辛さを思い出す時は、「辛さ」を「記憶再生」しているというより
「辛さ」を「再び甦らせてしまっている状態」に近いのではないだろうかとも思う。
つまり「楽しい思い出」を「思い出す時」は「楽しい思い出」を「甦らせている」状態だ。
僕が考えるに、「辛い思い出」や「楽しい思い出」は、あまり意識せず、記憶を「もう一度味わいたい」という
「本能」が働いて無意識に動いているような気がする。
「お腹が減ったら食べる」みたいに。
なので「記憶」を「思い出す」とは「記憶」を「再び味わう」とも言える。または記憶を食べるだ。
ただし、現実の食べ物のように「食べる」と「消化」されて食べ物が消えたりはしない。
何度も味わうことができる。
そしてその楽しさに満足したら、また味わいたくなるまでとっておくか「脳」がもう必要ないと判断した場合は「睡眠中」に「脳内」から除去される。
だから「子供の頃の楽しい思い出」を「脳」が除去しないのは、体もそれを必要だと感じているからかも。
話がむっちゃ逸れたけど
すぎやまこういち先生が言った「心の貯金」のようなものを、一つでいいから見つけておくことは大切だと思う。
でもたぶん、「たくさん貯金」すれば良いわけじゃなくて
「何度も繰り返し味わいたくなるもの」を
「貯金」?「貯心」?することが大切だと思った。
あまりにコンテンツが多い時代だし、なんでも思い出として残せる技術がある時代だからこそ、限りある自分の命の使い方を考えなければならないのかもなー。
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