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戦後最高の軍師 篇

1.  問題児、三木武吉

 もはや21世紀も四半世紀は過ぎようとしているにも関わらず、社会は停滞しているどころか後退していくかのような様相である。

 裏金だなんだと、現代日本の政治に辟易して、過去の政治家たちを振り返ってばかりいるのは、よくないことであるとは思いながらも、その胸をつく言動、ユーモア。こういうものを歴史の中に見つけるたびに、ぼくは昭和を揶揄しバカにする風潮の中で、令和の方こそ大したことないのではないか、という一つの疑問を持って、この文章にぶつけたいとの思いで筆を取っている。

 そんな中、ご紹介するのは、林田の古巣、日本銀行の先輩でもある三木 武吉

 『小説 吉田学校』の戸川 猪佐武が書き下ろし、さいとう たかをが劇画でお送りする漫画『大宰相』。日本の戦後史が漫画で一手に理解できる全十巻は必読の書なのだが、三木 武吉がその策略を遺憾なく発揮する第三巻はまさに圧巻である。

 三木は、とにかく問題児である。

 高松中学校をうどんの食い逃げがバレて放校。同志社中学に転ずるも乱闘事件を起こして退学。早稲田大学を経て日本銀行に入行するが、日露戦争後のポーツマス条約に納得できず、弾劾演説を、日本銀行員のまま行ってクビになる。

 この後、東京でおでんの屋台を引いたりして食い繋いでいたが、大正2年(1913年)、牛込区議会議員として初当選すると、4年後の大正6年(1917年)には憲政会から衆議院議員に当選する。

2. 借金大王にして野次将軍

 当時の憲政会の党首は、藩閥直系の寺内 正毅である。一方で、大正6年の選挙で憲政会を追い落として政権交代を実現した立憲政友会の党首は、かの平民宰相、原 敬である。

 立憲政友会の創設者は、長州閥から初代総理大臣となった伊藤 博文である。伊藤という男は、時代が被りすぎているせいで、西郷や大久保の影に隠れて小物扱いされることが多いのだが、日清戦争に最後まで反対するものの、開戦が決まるや否や、一兵卒として大陸に行こうとして止められたり、国会の開設にも最後まで反対していたが、国会が開設されると決まると、自ら藩閥の特権を捨てて政党を作って選挙に挑んだ。伊藤とは、そういう人である。

 さて、話を戻そう。大正6年の政権交代選挙のとき、立憲政友会の坪谷 善四郎が、公開の演説会で三木 武吉を次のように批判した。

「あえて、ここでは名前を言わないが、某候補は家賃を2年分も払っていないという。米屋にも、ツケが1年以上たまっている。このような男に国政を任せて良いものでしょうか?某候補は、いさぎよく立候補を辞退すべきであるッ!」

 これを聞いた三木は、坪谷の後に臆することもなく出ていってこう言った。

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