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「生きながらえる」社会

夜、帰宅する途中でこんな風に声を掛けられたらどう答えますか?

「今日も生きながらえて、よかったですね😊」

医師から余命宣告を受けている身ならともかく、健康な人がこれを聞いたら

「なにをそんな大げさな…w」
「フツーに生きてるだけですけどwww」
「ここは日本ですよ?w」

としか思えませんよね。

世界一の長寿国となった現代の日本に住む私たちには「生きながらえる」という言葉に何の感慨もありません。しかし、これが150年前の日本人ならきっとこう答えていたはずです。

「はい、おかげさまで😊

かつての日本人にとって「生きながらえる」ということは大きな意味をもっていました。今回はそんなおはなしです。

日本が長寿国になったのはごく最近のこと

下記のグラフは、日本人の平均寿命の推移を示したものです。太平洋戦争が終わった1945年時点の日本人の平均寿命はわずか50歳なんです。そこから急激に平均寿命が延びています。今でこそ世界有数の長寿国の地位を確立した日本ですが、それは戦後になってからの話であり、それまではどちらかというと低かったようです。戦前でも40歳程度しかありません。これは当時の欧米諸国と比べるとかなり短く、日本はもともと【平均寿命が短い国】でした。

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(http://www.ritsumei.ac.jp/~satokei/sociallaw/compulsoryretirement.htmlより引用)

子どもの死亡率がハンパない江戸時代

明治からさらに昔に遡ってみると、江戸時代の平均寿命はなんと30歳~40歳だったそうです。これは西洋諸国と比べても低い数字です。江戸時代の日本の平均寿命を著しく押し下げたのは子どもの死亡率の高さでした。家康が天下統一したことで戦国時代が終わり平和な時代が訪れたのですから、子どもはどんどん増えるはずなのですが、実際には生まれた子の多くは死んでいたということです。

公式な記録として最も古い1899年(明治32年)に実施された人口動態調査によれば、乳児(生後1年未満の新生児)の死亡率が約15%でした。明治維新以降、様々な西洋の科学技術が取り入れられた後の明治32年の時点で15%ですから、江戸時代の乳幼児の死亡率はもっと高かったはずです。30%~40%くらいあったのではないでしょうか。江戸時代では10歳になるまでに4割の子供が死んでいたそうです。

江戸時代、乳幼児の死亡率がハンパなかったことを象徴するエピソードとして徳川家12代将軍の徳川家慶が有名です。彼には男女合わせて27人もの子供がいたのですが、成人するまで生き残ったのはたった1人でした(この1人がのちに13代将軍家定)。生育環境としては国内トップクラスに恵まれていたはずの徳川家の子ですらバタバタ死んでしまうわけですから、一般庶民の子なんて推して知るべしです。

江戸時代までの日本では、子供が生まれると幼名を付けるのが一般的です。徳川家康の幼名は竹千代でしたが、一般庶民の幼名には「熊次郎」とか「熊吉」とか強い動物の名前を付けることが多かったそうです。これは、我が子が少しでも長く元気に生きられるよう、強い動物の生命力にあやかって付けていたそうです。名前負けとかキラキラネームとかそういう次元の話ではなく、まさに生きるか死ぬかという中で、少しでも長く生きてほしいという親の切な願いが生んだ習慣といえます。

7歳までは神のうち(七五三の由来)

江戸時代の子どもの死亡率の高さを物語るのに「7歳までは神のうち」という言葉もあります。当時0歳~6歳の乳幼児というのはあまりにあっけなく死んでしまうため、この社会に存在する人間としてカウントに入れるのは7歳になってからとし、0歳~6歳までは神様から一時的に預かった存在である(必要に応じて神様に返す存在)、という考え方をしていました。ちょっと残酷ですが、風邪を引いただけで命が危ぶまれていた時代ですから無理もありません。ちなみに、これが七五三の由来です。7歳になるまで無事成長し、ようやく人間社会の仲間入りを果たした子供を祝うのが七五三で、これから先も「長く粘り強く生きられるように」と願って千歳飴があるわけです。
千歳飴が歯にくっついて取れないのはそういう由来があるので我慢するしかないですね。

西行の歌に見る日本人の生命観の原点

当時、生命の危機に晒されていたのは子供だけではありません。大人もです。江戸時代には飢饉や天災が度々起きていましたし、戦国時代ほどではないにしても小さな小競り合いや衝突は日常的にありました。歴史に名を残すような偉人ならともかく、一般庶民の大人の寿命はそれほど長くなかったと考えられます。一般庶民の多くは、非情ともいえる倍率の中で子ども時代を生き抜いて大人になってもなお「来年の今頃、今日と同じように生きていられる保証はどこにもない」という状況で生きていたわけです。

この江戸時代の一般庶民の生命観そのものでもあり、日本を代表する仏教学者、故・中村元さんが『日本人の生命観』の原点として挙げているのが、鎌倉時代の禅僧 西行の以下の和歌です。

「年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」
訳:年老いてから、この山をまた超えることができる(旅ができる)と思っただろうか、いや思いはしなかった。こうして小夜の中山を越えることができるのは、命があるからこそだなぁ。

小夜の中山」というのは、現在の静岡県掛川市にある峠の名前です。

江戸と大阪を結ぶ東海道の真ん中あたりにあり、昼間でも暗く鬱蒼とした森と急勾配が特徴的な峠です。この峠を越えなければ江戸にも大阪にも行けないため、多くの旅人がここを通っていきました。

そして、数多くの旅人が命を落とした場所でもあります。

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この峠には、鬱蒼とした森を抜けて上までのぼりきったところに少し開けた場所があるのですが、そこに無名のお墓がたくさん建っています。この「小夜の中山」は、じつは野盗の巣窟だった場所で、ここを通る旅人が何人も野盗に襲われ犠牲になった凄惨な場所でした。無名のお墓は、野盗に襲われ犠牲になった旅人の墓です。峠の近くには真言宗(※)のお寺が建てられています。(※真言宗=祟りや怨霊を抑えるとされる)

西行の歌は、このように命の危険が伴う「小夜の中山」を無事に通過し、命をながらえられたことに対する安心と感謝の気持ちを残したものです。この感謝とは誰に対するものでしょうか?それは「すべて」に対してです。総じて「天の助け」と言えるかもしれません。

「もしかしたら、ほかの誰かが野盗に襲われたことで、たまたま自分が襲われずに済んだのかもしれない。あるいは、誰かが命を張って野盗を退治してくれたのかもしれない。これを天の助けと言わずして何というべきか」

戦争、病気、天災、飢饉、犯罪。江戸時代までの日本人はそんな不条理な理由でいとも簡単に命を落とすことが日常的だったので、西行の歌にあるように無事に一日を終えられたときは「いのちを今日もながらえた、今日もながらえた」と感謝し、大晦日には「今年もいのちをながらえた」と一年間息災であったことに対して周囲の人や神への感謝の念を欠かしませんでした。自分が色んなものに助けられながら「いのちを生きながらえている」という実感が強かったわけです。

しかし現代に生きる私たちは、明日という日は今日とおなじようにやってきて当然のものと思っているし、来年の今日という日も同じようにやってくるものと信じてやみません。それどころか「自分のいのちは自分がひとりで支えてるんだ」などと思い上がったりもします。

おかげさまで、いのちをながらえてる

よくよく考えてみると、私たちの今の生活は様々な人の努力や親切や善意や犠牲が積み重なった上にあるわけで、その助けがなかったら江戸時代の子ども達のようにあっけなく死んでたかもしれません。医師から余命宣告を受けた人なら「ああ、今日も生きられてよかった」と自然に思えるかもしれませんが、そうでない人であっても「おかげさまで、自分はいのちをながらえているのだ」と感謝の念を持つのは決してやりすぎとは思えません。

例えば、仕事帰りの電車で隣に座った人、帰宅途中のスーパーのレジで後ろに並んでいる人。知り合いでもなければ、普段私たちは気にも留めない人たちです。でも、もしかしたら江戸時代以前の日本人なら「お互い、今日も生きながらえましたね。良かったですね」という感情が自然と沸くかもしれません(さすがに声には出さないでしょうけどw)。また、街の中や電車の中で具合を悪そうな人を見かけたら、真っ先に「大丈夫ですか!?」と声を掛けたくなるでしょう。誰かが「いのちをながらえられないかもしれない」ことが、自分事のように共感できるからです。

ここ数年、いのちが軽んじられているとしか思えない事件や出来事が本当に多いです。「いのちをたいせつに」などと道徳の教科書に書いてあるような空虚な正論を振りかざされるのは好きではないのですが(別に否定するつもりもないけど)、ただ日本人としては西行が詠んだように「おかげさまで、自分のいのちは生きながらえているのだ」という意識は持ち続けたいです。

科学や医療は最先端のものを。でも生命観は江戸時代に戻って。そうすればもっといい社会になるんじゃないかなー。と思います。

おしまい。




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