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ミスタージャイアンツと禅①

「ミスタージャイアンツ」こと長嶋茂雄さんと、禅の関係について。といっても、別に長嶋茂雄さんがスティーブ・ジョブズのように禅に傾倒していたとか、そういう話ではありません。(ミスターがホントに禅に傾倒していたかどうかは知りません)。禅について調べていたら、長嶋茂雄さんが思い浮かんだっていう話です。

禅とはなにか

「そもそも禅とは何か?」という禅の起源については、ググればたくさん出てくる話なので詳細は省きますが、一言でいえば「中国流に解釈された仏教」です。仏教はインドで生まれたものですが、仏教が中国に伝わった際、中国土着の思想(儒家思想、老荘思想)や中国人の気質などと相まり、長い年月を経て「禅」として大成されたと考えられています。
(※仏教と禅の関係についてはこちらの投稿も参照)

禅も仏教の一種なので、目指すべき究極のゴールは仏教と同じです。すなわち、お釈迦様が体験したのと同じように「真理に目覚めること=悟りを得ること」です。このゴールの目指し方が同じ仏教の中でも微妙に解釈が違うため、様々な諸派ができるわけです。禅はそんな仏教諸派の中でも、群を抜いて異質であるからこそ独自のポジションを確立できたと言えます。

禅が重視するもの

「悟りを得ること」が究極のゴールだとして、禅はそのゴールに至るために何をすべきだと私たちに訴えているのでしょうか?それは「知性からの脱却」「智慧への覚醒」です。「知性」は「言語・論理」、「智慧」は「直観・感性」と言い換えてもいいかもしれません。

「言語や文字で表現できてしまう範囲に真理なんてありはしないんだよ」
「悟りに至るための源(智慧)は、あなたたち全員の意識の奥底に眠っていて、自分でそれに目覚めるしか方法はないんだよ」

と言っているわけです。

「禅は宗教か?」という問いに対しては、おそらくNOということになります。なぜなら、宗教には普通、「経典」があって然るべきだからです。例えばキリスト教やユダヤ教なら「聖書」、イスラム教なら「コーラン」、仏教なら「各種経典」といった具合です。でも禅にはそういった書物らしきものが一切ありません。
不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉を聞いたことがないでしょうか?これは禅の基本的なスタンスを端的に表した言葉で、文字や言葉での表現というのは所詮「知性」の範囲を出ないので、そこに真理はないと禅では見ます。だから禅には経典が存在しないのです。私も冒頭で「禅とは何か」と説明していますが、その意味では、この説明はまったくもって禅っぽくないのです(もっとも、この説明で禅の本質を述べようとしたわけではないですが)

禅がすごいのは、書物どころか口頭での議論や説明でさえも否定するところです。例えば弟子が師匠に「禅とは何ですか?」と尋ねたとき、「ウム、それはだな・・・」なんて答えようものなら、その答えはまったく禅的ではないということです。師匠失格です。このように、知性(とくに左脳)の働きをトコトン拒否するのが禅のスタンスなわけです。

では、真理に至る=智慧に目覚めるために禅はどのようにしろと訴えているのでしょうか?そのヒントになるのがミスターです。

(次回につづく)

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