なぜオッサンは古典とか歴史が好きなのか
どうもこんばんは🌙
この間、入社2年目の若者と会社で雑談していたときに
と聞かれたので、繰り返し読んでいる東洋思想の入門書を紹介したところ
「あ~、ハイハイ😅」みたいなリアクションとともに
と「オッサンあるある」で括られてしまった私です。
まぁ、私が東洋思想を勉強し始めたのは2015年(35歳)~なので、彼の年齢(20代前半)からすれば十分にオッサンではありますがw
ちなみにその時の私は
と半笑いで答えましたが、その時、内心思っていたことは
です。
なぜ私は若者に古典や歴史を学んで欲しいと思うのか?
それは、前回のポストの主題であった
の最も現実的な(=悲惨な体験をせずに済むという意味での)答えが「古典や歴史を学ぶこと」だからです。古典や歴史を学ぶことが「信念の形成」や「ブレない軸」をつくる上でとても有用だと考えるからです。
※あ、ちなみにタイトルに「オッサン」と書いてますが、別に中年男性に限った話ではありません。「オバサン」も併記すると長いし色々と微妙なので「オッサン」の一語に集約しただけです。意図としては「社会人経験を長く積んだベテラン勢」だと思ってください笑
なぜ古典や歴史を学ぶと、信念や軸がつくれるのか
答えはとってもシンプルで、それが普遍的だからです。
え?「古典」なんだから普遍的なのは当たり前すぎ?
でも、改めてよく考えてみてください。
「普遍的である」っていうのは、貴重な人生の時間を使って学ぶ対象を選ぶときに、とってもとっても大事な特性だと思います。
そもそも「普遍的」とはどういうことか?
それは、過去の時代を生きた人たちに
と心から思わせて、それを後世に残す「具体的な行動」に移させたってことです。
例えばそれが書物の場合、複製と保管には多大な労力とコストがかかっていました。キリスト教なら聖書、仏教なら経典、漢籍なら木簡、当時そこに書かれた文言が現代でも残っているというのは、とてつもない事実でありパワーが発揮された結果だと思いませんか?
この「マジで重要なこと」は必ずしも書物で残るとは限りません。例えば口伝です。民間の伝承や伝統芸能は口伝が多かったりします。諺(ことわざ)、俗説、故事成語も同様です。
こういったフレーズ(言い回し)は現代に生きる私たちも日常的に使いますよね。科学的な根拠は乏しいのかもしれませんが「うん、でも一理あるよな」と思う節があるからこそ、ここぞというときに使っているのではないでしょうか。
現代では、毎年約7万冊の本が新規出版されているそうです(2019年時点)。
1日あたり約200冊の新刊が出ていることになります。
さて、この7万冊の中で100年後あるいは200年後に残っている本が何冊あるでしょうか?
あ、「残っている」っていうのは「物理的に残っている」って意味じゃないですよ笑
100年後にブックオフがあるかわかりませんが、100年後のブックオフやメルカリで中古本として売られているか?という意味の「残り方」ではなく、以下のビジネス書のように、その時代その時代の文脈に沿った形で、後世の人に再注目されたり、再解釈されるような「残り方」です。
現代における「聖書」のビジネス書例👇
聖書が書かれたのは紀元前4世紀です。
現代における「仏教」のビジネス書例👇最初の仏教の経典(阿含経)が書かれたのは紀元前4世紀頃です。
現代における「儒教(菜根譚)」のビジネス書例👇菜根譚が書かれたのは16世紀です。
古典のような「普遍性」がある書物に書かれていること、あるいは先祖代々で受け継がれてきた知恵や伝承というのは「そこに暮らす人々や社会にとって、それが良い結果をもたらす考え方」だったから残されたわけです。
もしその書物に書かれていたことや言い伝えに従ったことで先祖の誰かが悪い結果を被っていたら「こんな書物や伝承はもうダメだ!子や孫たちに残すべきものではない!」という判断がなされるはずです。一過性のトレンドや流行で作られた書物や考え方は時代やトレンドが変われば適用できなくなり、歴史の中でいつか淘汰されていきます。古典はその淘汰に揉まれ続けて尚、現代まで残ったものです。
社会人である私たちは、経営者だろうが、会社員だろうが、自営業だろうが、公務員だろうが、基本的には社会に良い結果をもたらし、自分と家族を幸せにするために日々仕事をしているはずです。
先ほど述べたように、古典には「そこに暮らす人々や社会にとって、良い結果をもたらす考え方」だけが残っているので、古典の考え方に沿って行動している限り、失敗することがありません。自分の行動や考え方は「社会により良い結果をもたらすはずだ」と強固な自信をもつことができます。これが他人からは「信念を持っている」ように映ったり「ブレない軸がある」ように見えるのではないでしょうか。
じゃあ古典だけ勉強すればよいの?
と、短絡的に捉えて古典「だけ」読み漁るのはあまりオススメしません。
(もちろん、全く読まないよりは読んだ方がよいですが…)
先ほど述べたように古典が書かれたのは今から数百年~数千年前です。
古典が書かれた当時と現代では状況が違うところが多々あります。そういう違いを加味しつつ、古典に書かれた内容からどのエッセンスを抽出して、現代の自分の仕事や問題に活かすか?が重要です。そして、その考え方のヒントになるのが歴史です。
とくに歴史上の偉人と言われる人たちは、皆、何らかの古典をテキストとして活用して歴史を動かしてきました。持統天皇なら「易経」、徳川家康なら「貞観政要」、武田信玄なら「孫子」、渋沢栄一なら「論語」です。こういった偉人達が、古典をどのように参考にしてどのように偉業をなしたのかを追体験するのが「歴史」を勉強する意義だと考えます。その意味で私は「歴史」と「古典」はセットだと思っています。年号や出来事を覚えるのも重要ではありますが、それが歴史を学ぶ本質ではないと私は思います。
なぜオッサンになると古典と歴史を勉強しだすのか?
私自身の経験をお話しますと、私は社会人になってから20代~30代前半までは古典や歴史とは無縁でした。
学生時代からずっと理系でコンピュータサイエンスを学んでソフトウェアエンジニアになった経緯もあって「生産性」「効率性」「コスパ」を重視していました。なので買う書籍といったらビジネス書や自己啓発書、投資の本ばかりで、人文系の本は手に取ることすらありませんでした。冒頭で紹介した入社2年目の若者もそんな感じに見えます(とっても良い子ですよ)。
それが2014年に社内研修で東洋思想研究家・田口先生の講義を受け、衝撃とともに直感的に「自分に必要なのはこれだ!」と思い、そこから真逆の方向性に走り出して今に至っています。
でも今思うと、若い頃の私は「生産性」「効率性」「コスパ」というものを信奉していたわけではなく、単にそれ以外の評価尺度を知らなかっただけな気がします。今でも買い物をするときに「コスパ」は意識しますし笑
で、なぜオッサンになると古典と歴史を勉強しだすのか?ですが、、、
これは私の持論ですが、おそらく社会人として色んな経験を積むうちに「生産性」「効率性」「コスパ」だけでは測れない「だいじなこと」が世の中には存在するのではないか?という仮説に気付くことがあります。で、「なにがだいじなのか?」という不可視の評価尺度の正体を知るため、ヒントを求めて古典とか歴史を勉強しだすのではないでしょうか。もちろん、もともと古典や歴史が好きで、オッサンになって時間の使い方に余裕ができた(老練になった)から勉強するというケースも多いと思いますが。
私は幸運にも、その仮説を持つ前にいきなり東洋思想に出会ってしまったのですが、最近、古典や歴史を学び始めた同世代のオッサンがいたら、是非経緯を教えてください笑
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