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擬態する正義・ありえない仕事術 正しい“正義”の使い方

ハイパーハードボイルドグルメリポートの上出遼平氏による仕事本。とっくにテレ東離脱してニューヨークに行ってたり、mudaやpodcastで新たな境地に進みつつあるテレビマン(この括りは最早安い)であり、カリスマ性みたいのはビジュアル含めてハイソサエティな映像クリエイターとして爆進している。

群像に寄稿されたある種の告発や、歩山録など映像だけでなく文章を書けるディレクターという次の時代の創作者として無茶苦茶追っかけたくなる彼が遂に仕事術の本を出すとなると何か意図や仕掛けを期待せざるを得ない。

本書は2部構成で、1部はスタンダードに自身の仕事術というかドキュメンタリーを生業とした人間の企画のフックの取り掛かり方や、「とにかく寝ろ」や「飲みに行くな」などベース的なメンタリティに言及していくクリエイターのマインドを啓蒙していく。細部への心を動かす点検の重要性やエンターテイメントとドキュメンタリーの境界線など自身の経験則を元に丁寧に記述されていく。

正直全部読み終わったあとからすると、ここでの記述さえフィクション入っているのでは?と考察が捗ること間違いない。もしかしたらここは2部へ向けた架空の啓蒙なのかもしれんないかもしれない。このメタ的ビジネス書というのは非常に書店で擬態していると思うと微笑ましい。

そして問題の2部である(こっからこの書籍の構造のネタバレ含みますので未読者は買ってこい)

2部はカミデ氏が現在取り組んでいる「ドキュメンタリーシリーズ『死の肖像』」の制作過程を振り返るという実例に突入していく。まだ未発表でネトフリ辺りでドキュメンタリーシリーズ始まるのを先出ししてくれてるのかなと、上出ファンからすると未開のお話にテンションがアガる。

「死」を題材としたドキュメンタリーを作るということで企画構成からスタッフチョイスまで刻々とドキュメンタリーの企画発生をプロセスエコノミー的に書き連ねており、取材対象の選定から相手型への交渉などドキュメンタリーの作り方の流れを実際のやり取りを踏まえて動き出す。

第一弾は終末医療の現場へのカメラ介入が決まり、コロナ禍な中での取材方法などリアルにどこまで「死」の現場に介入できるかという難しさが課題となる。結局ディレクターは潜入することはできるのだが、なんとそのまま院内感染にまで発展してしまい、ディレクターは患者という立場からカメラを回し続ける。結局院内で死亡者が発生したりしてちょっと話題になるが、あくまでもドキュメンタリーチームが介在したという事実は糾弾されることなく取材は少ししこりを持ちながらも終了していく。

そして「死の肖像」第二弾は個人にフォーカスを当てることとなりALS患者への取材がメインとなる。カミデ氏はここで対象者の家に通い詰め、ディレクター・被写体の関係性を少し逸脱したようなパーソナルな交流を育むこととなっていく。

そして死を題材とする以上ドキュメンタリーの終着点として求められるのはやはり「死の瞬間」である。やはり創作者としては介在するもののそこを奥底で意識するものの、センシティブな要求でもあるのでそこを目指すという葛藤が生まれる。

そんな中でもカメラを放棄して花火大会を見にいくシーンは美しくもあるが、もし帰り道に何かしらの不備が起きたらという不安も描かれる。ドキュメンタリーの個人的な距離感やカメラ被写体を超えた関係性を保つという人間同士のガチンコの交流(情が映る)というのはディレクターの態度とししては非常に危うい。

ALSはどんどん体が動かなくなるので最終的には人口呼吸器が取り付けられ、なんとそれを付けると取ることはできずにそのまま生きながらえる必要がある。つまり人口呼吸器を付けたが最後、それを外すかどんどん病状が進むのか見守ることしかできなくなるのである。現状では更なる医療の発展を期待しながら人口呼吸器装着してその時を待つぐらいしかできなくなるのだ。

そしてこっからさらに対象者の家族へのインタビューが始まる。終末を迎える存在に対するその家族にしかわからない複雑な感覚を口に開いてく。

そして対象者の意思として「この状況は生きているのか?僕が死ぬのを手伝って欲しい」という究極の誓願がカミデ氏に投げかけられる。そこから葛藤が始まり、ALS患者の方の「自伝」を作成しようという方向性に固まっていく。

遂に当初の取材期間の最後の日である被写体の誕生日がやってくる。色々な人々が集まりある種「ドキュメンタリーの絵」としてじゃいいオチで完成は迎えれそうであった。そこでカミデは遂に人口呼吸器に合意に元手をつけてしまうのであった。

そして患者の「遺書」カミデ氏の「遺書の隣で」という本も発売され、とあるトークライブに被写体の妹がやってきて「お兄ちゃんは誰かに殺されたのかも」という発言にカミデ氏は遂に追い詰められていく。

被写体の妹という存在に追い詰められていきカミデ氏はいわゆる滝川ガレソ的な存在に頼み込み、その妹のスキャンダル的な部分を捲り始める。自体は収束したかと思いきや遂に妹側がこれまたガレソ的なアルファツイッタラーに対してカミデ氏への嘱託殺人への疑惑を向け始める。そして嘱託殺人の瞬間のデータが別ディレクターにより発見され、結局は逮捕まで至ってしまう。

ビジネス書としては著者逮捕まで至り、最終的には刑務所の中から手記という形で書かれるという凄まじい斬新な構成。どこからが真実でどこまでが創作なんのか読み進めるうちにシフトしていく感覚が非常に新しい。特にビジネス書構文の「ですます」調も後半まで徹底されており、この淡々とした文章が一線をジワジワと超えてくる仕掛けもなかなか秀逸。

そしてはじめにの章でこの作品はフィクションであると直球で記載している事実は構成としてあっぱれである。(この世界には、架空の話としなければならないことがあります)というミスリードも美しい。

フィクションと銘打っているとしてもこの取材パートで描かれるような人間や環境は事実であり、展開はともかく今現在社会に存在する人々はドキュメンタリーを介在せずとも実際に存在している。ドキュメンタリーの暴力性とそれでも世界を切り取るという行為は我々が知りたいと欲求がある限り無くならないだろう。

じゃあこの後に自分らが行動すべきことはなんだろう。やはり自分で介入していって「お前ならどうする?」という問いに対して何かしらの感覚を得るだけでなく見える範囲で行動をすべきなのだろ思う。だから俺はこれを今日書いた。構成で魅せるという魅力を伝えるとともに、フィクションであろうがドキュメンタリーというもののパワーみたいのも信じていきたい。今の時代ビジネス書に擬態してフィクションでドキュメンタリーを語るという不思議な魔力に満ち溢れた良者である。

この人は本当に真摯に世の中と戦っている。

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