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"The LEPLI" ARCHIVE 107/ひらかわ流-2-最近のコムデギャルソンのコレクションの見方、感じ方そして、読み方-クリエーション編+「”文化功労賞”を受賞した川久保玲という実像−2。」(+追記)

文責/平川武治:
初稿/2013年10月19日:
追記/2023年11月:
画像/村上豊「はだかの王さま」より。

 時折、東京へ出掛け出会う人たちの世代によるのだが交わされる会話が、
年金の話、がん保険の話そして、病気の話と異常気象の話若しくは、ガーデニングか旅の話。
多分、これらが僕たち世代が交わす会話の今様の当たり前な話題なのであろう。
 しかし、それなりの世代の会話にも然程、変化は無く加えて自らの自慢話。
最近は殆ど、新鮮な個人の世界観を感じさせるまでのボキャブラリィーを使った話が無く
貧しい会話で所謂、テンプレート化されたものが多いと感じてしまう。
ここでも『自由』の根幹が実生活で発育不良化し萎えてしまっているのだろうか?
その現象結果が現在の”東京コレクション”の現実の多くであろう。

 そのような現実とそこでの生活が平和を象徴しているのか、諦めが顕在化しているのか?
僕のような生き方をして来たものにはやはり異界の会話になってしまっている。
従って、そんな輩たちとは再会も憚ってしまう。

 トンネルのこちら側の竹藪の中にいる方が冷静なる好奇心を
未だ、引きずることが快感な生活である。
それは、決して快適ではない寧ろ、不便さの中の日常性を
周囲の生態系の摂理の中で心地よさを感じられるからである。

 ◎はじめに、抱いてしまった疑問?;
そんなに、一ファッションデザイナーと言う立ち居場所において、
”自己顕示”と”自己肯定”という「業」の世界で何が救うの事が出来るのであろうか?」

 デザイナー川久保玲もそんな“年金云々”などと言う現実からは途方も無くほど遠く、
かけ離れた生活を為さっているから、この様な『服で無い服』に拘ってしまった、
“豊かさ故の反抗心”と言う倫理観からコレクション発想が出来るのであろうか?
或いは、その正反対の拭い去れない、時代の育ちからのコンプレックスが
根幹のモチベーションなのかと、
訝しい考えを持ってしまったCdGの先日のパリコレクションであった。

 僕の様に”捩じれて生きて来たもの”には、
年金の話やがん保険の話を聞かされるよりはもしろ、僕向けである。
 以前、僕が約20年ほど前にインタビューした折には、
川久保サンと“捩じれて生きている”という発言を交わし合ったことを覚えている。
が、彼女の場合は決して、それが現実の生き方ではない立場と環境からの言葉でしか無い。
元々、若き時代から彼女の実生活のクオリティは強い、「スノッブ志向」であるからだ。

 しかし、この様な川久保玲が発するある種、「虚像」の世界が
どれだけ通用するのだろうかとも思ってしまうが、
その彼女の強気に僕は魅かれ、より、好奇心駆られ乾杯をしてしまう。
 一方では、この世界が通用する世界が現存することの方に恐怖を感じてしまうし、
また、この彼女の虚構の世界が本意ある解釈の元に
理解されてしまっているのだろうか?との懐疑的な思いもある。
 その根拠として、最近のこのデザイナーが見せる『特意性』からの
『特殊性』への惰性とはを感じる。
多分、「ユダヤの森」へ、ビジネス婚の夫の手を引かれ導かれてからだろう。

 既に述べたが、このようなクリエーションアイディアとショー形式に変化し始めたのは
僕流に言えば『特意性』が変化し始めたこの3〜4年来の現実のショーである。
 この変化の要因とは、川久保自身の高齢化もあるであろうし、社員の増加もあるであろう。
何よりもモードにおける環境そのものが変化し、クリエーションの新しさも変質してしまったという外的要因の現実性からでもあろう。
だが、”継続と繁栄”という実業の世界の責任と義務感も他方では必在するからだ。

◎一つの造形の世界としての”ブリコラージュ”;
 また、結論的な視点から入ろう。今シーズンのコレクションの僕の眼差しは、
このデザイナーの発想になる従来からの『特意性』をより、表層化させた
コレクションピースのいくつかのエレメントの”ブリコラージュ”である。
 
 言い替えれば、ここにも、川久保玲流”アーカイブスのバリエーション”と
”アーカイヴスのブリコラージュ”と言う手法が読める。
多分、時代がここ迄来てしまったという迄のこれも新しさの手法なのであろう。
勿論、その時の”自心のアーカイヴス”が
オリジナリティありクオリティが高ければ、高いほど、今後のブランドの価値を生む。
であるから、現在に至る迄のこのブランドのクオリティの高さだけがその立ち居場所と
求める『特意性』に差異を付けられる迄の”ブリコラージュ”手法が可能となり、
『特集性』に耐えられる。

 東北大震災以後のコレクションで見かけるようななった
僕流には、“アトリエの瓦礫の集積”以後、”エアー & 詰め物ボンディング”から
”フラットクロージング”そして、以前から時折出て来て彼女が好きなコンセプトの一つ、
”四角い駕篭の鳥”シリーズ。
 結局は、今までにこのデザイナーが提案して来た『特意性』の造形的ブリコラージュが
今回のコレクションに於ける『服で無い、、、』の重要性を委ねたエレメントである。

 例えば、彼女の経験からは、先シーズンに発表した”フラットクロージング”は
多分、新しい領域で在ったであろうし、
今回もその継続性と発展性が僕には一番美しく、面白く
その後の可能性も読めるまでのものであった。
”エアー & 詰め物ボンディング”はご存知のシリーズ。
そして、”四角い駕篭の鳥”シリーズは彼女の「創造の為の発想」の
根幹の一つに位置するものかもしれないと感じたのも今回であった。
若しくはただ、彼女が好き(?)で引っ掛かっているエレメントということも出来る。
ちなみにこれらの『服で無い、、、』の販売価格を調べると、
一番、価格が高いのがこのシリーズであった。

 ”拘束されてしまっている自分”と“拘束されている他者”との対峙とパラドックスな眼差し。
この“四角い鳥かご”の中にはいつもそのシーズンのメインアイテムが着せられている様だ。
今シーズンは、ジプシー風若しくは、スパニッシュ風フリル付のゆったりとした分量の
ローブである。
 
 ここでは、”丸い鳥かご”ではなく、“四角い鳥かご”もキーワードであろう。
“丸い駕篭”=”コルセット”では、当然、”パンク”ではないのである。

 このデザイナーの「創造の為の発想」は
彼女が持ち得た実経験からの発想は現在では、殆ど無い。
寧ろ、「時代の傍観者的なる視点としての距離観」が大きく発想の為の発端として働く。
そこには、現代の若い世代のデザイナーたちとは”遅れ”という差異を感じる。
それは“身体性”ではなく、“肉体性”で着るという迄の時代感覚と実生活感が感じられない。
『皮膚感』で着る服ではなく、”理屈”で着る服。
しかも、川久保流『装飾性』あるいは、”なりすまし”を着る服でしか無い。

 そこで彼女はファッションビジネスの根幹である”トレンド”という”フレーム/安全パイ”を
大きい外枠としてコレクションを手掛け始めた。
 従って、今回の『服で無い、、、』コレクションも熟視すれば、
今シーズンの”トレンド”要素である、素材や色調が程よく旨く含まれ、
川久保玲流にこなされたものである。
—BLACK, PINK, チュール、不織布、プリーツ、フリル、フラット、I.J.プリント等々。

 この数シーズン来のこれらの『特意性』の継続の為の創造のエレメントは
決して、着る女性の身体や肉体性には感知していない。
寧ろ冷酷に無視されてしまっている。
ここで、川久保の言う『服で無い服』とは
着る女性の身体性を無視した服的なる形態をし
それなりの装飾性を幾つも附加させた”オブジェの世界”で在ると言える。

 このCdGのショーの数日前に、僕も『アズジン アライア展』を見せて頂く機会を持った。
従って、このショーを見ている間にどうしても同じファッションのカテゴリーとして、
川久保玲の世界とA.アライアの世界が重なりながら見え隠れしたので、
もう、このCdGのショーの造形美はいわゆる、「媚びた服」ではなく、
着る女性の為に作り込まれたものとしての感覚を排除した世界でしかなかった。

 そこには創られた造形としての”服”にナイーブさが感じられない。
寧ろ、個人的なる変らぬ”業”が屈折されて、ノイズとなって感じてくる。
“手”の温もりも感じられない。
―“ああしたい、こうしたい、こうして欲しい。” 
“ここをもっと、云々、、、、” 
ここでは、“手”の温もりよりも聴こえて来るのは
発せられる無数の言葉でしか無い。
悪く言ってしまえば、
その多くが既に、貼付けられた彼女独自の装飾性のみが
眼につき始めた決して、心地よいコレクションではなく、もしろ”ノイジーな”今シーズン。

 その中でも僕が興味を持ったのは、”フラットクロージング”による造形美であった。
このシリーズには美が感じられた。
河井寛次郎を持ち出す迄でもないが、彼の美意識の一つ、『醜さもまた、美』も理解出来る。そして、新たな展開による可能性も感じれた。
 後、救われたのは不織布によるインクジェットプリントによる極彩色のシリーズ。
即ち、色が極楽色の”詰め物”によって、より立体的に、
今的な3D発想で構築された美しさと新しさをも感じさせるものであった。
 
 また、毎回のコレクションで見せるストイックな迄に拘る幾つかの
彼女自身が持っている造形の為の素材の”タブー”も健在であった。
出来るだけ、”原素材”的なる工業素材とその感触を楽しむ迄に。
従って、出来上がった世界は『服で無い、、、、即ち、オブジェ』の世界。

◎そして、このようなショーをした展示会という実業の世界では;
 ショーで見せるのもは『服で無い、、、、即ち、オブジェ』をショーイングし、
展示会によって、見事にCdGが売りたい、CdGの売れる『服』を
売る為の展示会であった。

 この川久保のブランドである”CdG"は
既に、前述の“デザイン力学”を熟知した数少ない優れたデザイナーのブランドである。
この“ビジネスとクリエーション”の見事なまでのバランス感覚の現実は
このブランドの展示会ヘ行く事で多くの事が読め学べる。
この才能は川久保と二人三脚のように長年、このブランドの生産部門を
一人で切り盛りしてきた「田中蕾」さんの実力と使命感の見事なまでの凄さであろう。

 結果、この企業が死守すべき『川久保の立ち居場所』とその『継続』のための
ビジネス戦略的構造によって為されるバックアップ力の集約は
この“展示会”の根幹であり、培って来た経験と努力による商品化の巧さと
コーディネートアイテムのデザインバランスの良い商品構成は、
変らず、世界のバイヤーたちからの信頼と人気を得ているのだ。
 
 実際にこのような処方の『特意性』のブリコラージュ手法によるショーと
シーズン“トレンド”の幾つかの要素をCdGブランドの独自の“テイスト&クオリティ”を
確りと変らず根幹に為された両面的、”コムデギャルソンらしさ”を
商品化している強みによって、最近のCdGブランドの実売り上げは伸びていると言う。

 「ショーはプレス用。”驚かして価値あること。”
展示会はビジネスバイヤー向け。”世界観を価値として売って価値を生み出すもの。”」
というこのブランド企業のビジネスパラダイムの徹底ぶりが
実売上を伸ばすという”手法”をもう熟知してしまっている。

そして、このブランド、コムデギャルソンの“The Chaos of Idea "は
死守すべき『立ち居場所』とその『継続』のために、
30年間の創造と販売の経験とそれらを現実化する為の努力によって、
初めて全てが可能なるという『大義』が全て大切であると言う
当たり前の認識を改めて学んだコレクションでもあった。

文責/平川武治:巴里−倫敦−鎌倉にて。
初稿/2013年10月19日。
追記/2023年11月23日。

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