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風景を誤読するためのコンセプト #風景誤読 とは



大田区・蔵前の古書店。左隣には比較的新しい家系ラーメン


〈風景誤読〉とは?

正式名称「イメージを歩きつつ(風景を誤読する)」、長いので〈風景誤読〉と呼んでいます。

例えば、

  • 家のすぐちかくにあるけど入ったことのない、ちいさな商店や寂れた中華料理屋、狭〜い路地に入ってみる。もし気になったら、お店のひとにまちのことを訊いたり、その路地のことを調べたりする

  • 歩いたことのない場所、歩いてみたい場所を漠然とアタリを付けて、地図片手に冒険してみる。気になった建物や面白い看板があれば観察したり、写真を撮ってみる

  • 誰かが昔よく通っていた道や子供のころ遊んでいた公園などを言われるがままに辿ってみる。そこで見たものをベースに、そのひとに改めて話を聞いてみる

  • 「こないだここ歩いたらこんなものを見つけたよ」みたいな友達のはなしをもとにそこへ行ってみる。友達が見つけたものを見つけ直してみる。自分が見つけたものを友達に報告してみる

など、

(1) ひとりで/誰かと(複数人で)
(2) 何回かに分けて/時期をズラして
(3) 同じ場所を/少しはみ出して/別のルートで

複数の連鎖的な散歩をきっかけにして、その場所や人物と関係を深めて、イメージを重ね描きしていきます。〈風景誤読〉はまず、その一連のパフォーマンスを指します。

要するにただの散歩じゃないか、と言われるかもしれませんが、正に「ただの散歩」です。(もはや、疲れている我々にできることは、ふらっとここから逃げるように散歩に出かけていくことだけです。)
そこから誰かを巻き込んでいったり、郷土資料や報告書などの文献調査・聞き取り調査まで踏み込んでいったり、絵画・立体・写真・映像・音楽・文章などの作品になったり、どのように展開されるか、先々の計画を立てずに身を委ねるような制作をしたいと思っています。

このnoteでは〈風景誤読〉を写真や映像、文章等によってアーカイブします。「あるく」という最初の行為において見出されたもの、イメージされたものをなるべくそのまま書き残します。それをさらに編集し、何らかの作品(コラージュや散文詩、エッセイなど)に落とし込んだものは別の媒体で発表する予定です。

盛岡市・建物を覆う紅葉


〈風景誤読〉のコンセプト

  1. とにかく、実際に「(何の目的もなく)ただ歩いている(歩いてみる)」ことからはじまる。

  2. 単一のリアリティではなく、文脈の重なり、イメージの重なりに風景を見いだす

    1. 「ここに来たらここに行って、これを見て、これを食べなきゃ!(観光、グルメなど)」「その土地を学ばねば…(歴史、地理など)」といった画一的な価値規範をあらかじめ前提するのではなく、そのひとのその時々の直感や偶然的な気付き、関心の広がり、つまり、まちとの裸の出会いを尊重する。散歩者個人の文脈とまちが連ねてきた文脈の交差。

    2. 誰かひとりにとっての散歩と記憶はもちろん大事にしつつ、同時に、誰かと誰かが一緒に歩いたり、あるいは時をズラして別々に歩いたりして、複数の散歩と記憶を成立させる。同じ風景をみている、しかし別々のものを見ている(見つけられない)、という現象や、誰かが見た風景を追いかける、誰かの発見した道をたどる(たどれない)、という出来事を敢えて発生させる。

  3. そこらじゅうに立ち現われ続けている(と同時に隠れている)なんでもない生活の積み重ねにまずは身を曝してみる。生活の肌理との出会いをひとつの方向性とする。そのなかで浮かんできたイメージ、なんとなく引っかかったもの(場所)などに立ち止まる(観察する、分析する、調査する)。

    1. ただし、そのとき、すべてを「知」に還元しようとしないこと(途中「知」を経由しても良いが、最終的な形態を「知」に持っていかないこと)。絵画や写真的な「イメージにおける余白(寡黙さ)」を大切にすること。

    2. また、決して「日常の素晴らしさ」みたいなものは伝達志向の言語では語らない。説明しない。ただ、(制作)行為において表現すること。

    3. そして、その経験を一人称的風景として(説明するのではなく)何らかの媒体で語り直し、読み直し、歩き直す。そのように経験を「重ね描き」して、その場所と時間を共にし、あたらしく記憶が編み出されて残っていく過程そのものを「制作」とする一連の「歩く」という行為の広がりを作品とする。

桜上水のコインランドリー、たぶん「てるてるぼうず」


〈風景誤読〉がはじまるまでの議論

青葉区・釜場公園


参考資料

  • 渦森うずめ『まちから余白と無駄を救い出す旅路に出よう』2020年11月

  • よしかわこうじ『できごときごと(全5回)』2020年10月

  • 今和次郎(藤森照信編)『考現学入門』2015年6月(1987年)

  • 赤瀬川原平、藤森照信編『路上観察学入門』1993年12月(1986年)

  • 赤瀬川原平『超芸術トマソン』2006年9月(1987年)

  • 『あいまいなものの観察』Instagram

  • kashmir『ぱらのま(既刊5巻)』2017年〜2022年

  • kashmir『てるみな(既刊4巻)』2013年〜2021年

  • 地元学の会編『地元学』2000年10月

  • 結城登美雄『「ないものねだり」から「あるものさがし」へ』2012年4月

  • 香月洋一郎『景観写真論ノート:宮本常一のアルバムから』2013年10月

  • 森千鶴子『仙台地元学の成立とその背景』2015年9月

  • 千代章一郎『歩くこどもの感性空間:みんなのまちのみがきかた』2015年2月

  • イーフー・トゥアン『空間の経験:身体から都市へ』1993年1月

  • エドワード・レルフ『場所の現象学:没場所性を越えて』2017年7月(1999年)

  • 小野和子『あいたくてききたくて旅に出る』2019年12月

  • 古川不可知『「シェルパ」と道の人類学』2020年2月

  • ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』2021年4月

  • 橋本和也『旅と観光の人類学:「歩くこと」をめぐって』2022年6月

気仙沼市・八日町の白萩書房跡





※この文章は滴々の高倉悠樹が執筆いたしました。批判や感想などは高倉宛にお寄せください(滴々のTwitter/Instagram、このnoteのコメント欄で構いません)。
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