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【白昼夢の青写真case2 2次創作 「沛雨」第4話】

今日も今日とて、最悪な事態から一日は始まった。酒場の開店準備中、父が「む…」と呻き、包丁を動かす手が止まり、その場に座り込んだ。父の目が、再び見えなくなったのか。俺はじゃがいもをほっぽり出して父のもとへ駆け寄った。これで最後かもしれない、と思うと、背筋が冷えた。

「大丈夫か、父さん。見えていないのか。」

「慌てるな…準備を進めろ。夜にはよくなる。昨日も嵐で、客はロブとエドの二人しか来なかったから、ずっと三人で飲んでたんだ。今日は三日分稼ぐぞ。」

 父の顔は、俺の方を向いてはいるが、その目は、脳震盪を起こした人のように、どこにも焦点が合っていない。外目には見ているように見えても、当の本人の目には何も映っていないのだ。俺の不安が表情から伝わっていないことが、わずかに救いと言えた。

「何を根拠に夜なら目が見えるようになると言うんだ。とりあえず休んでいろよ。」
その不安が、言葉からも伝わらぬよう、少しだけ気持ちと心を強くした。

「寝てて食っていけるなら、俺は店などやっておらん。大きな声では言えんが、だいぶ困窮しとるぞ。」

ああ。元々は、そういう話だったな。もう、働くこともできなくなる父の店を、これからは食べていくために俺が継ぐ、と言って殴られて。夜は夜でいろいろあって。何だか、随分昔のことのように感じる。

「そして、お前はこんなところで何をしている?」

…ヨナギとのことか。勘の鋭い父だ。何らか上手くいっていないと察したのだろう。

昨晩、ヨナギがシャチと婚約したことを告げに来た。俺たちは必要以上の会話を交わすことなく別れ、二人の関係は終わった。終わり切れなかった俺は、自分自身の感情のあるがままを羊皮紙に叩きつけた。それから布団で大の字になり、泣きながら傷心に浸るうちに、朝が来た。
そういえば、父にヨナギからの見舞い品を渡すことも、彼女からの言葉を伝えることも失念していた。

昨日までのことは、彼女のことは、忘れなければいけない。心に渦巻くものを鎮めるため、ひとつ、大きくため息をついてから、こう言った。

「店の準備と、父さんの監視に決まっているだろ。」

父は失望を隠さず「つまらない男だな、お前は。」と言った。

父の目が見えているときなら、殴っていただろう。俺とヨナギがどうなったかも知らないくせに。俺が一晩、どんな思いで過ごしていたかも知らないくせに。父親であっても、俺とヨナギとの事の間に土足で踏み入るな。憤りの激しさに、思わず目の見えぬ父を置き去りにして店の外に出てしまった。

           *

会いたくない奴らが、店の方に向かってきていた。貴族の息子のシャチと、その取り巻きだ。取り巻きの一人が、俺を指差し、シャチに何かを告げた。シャチの視線が俺に固定されたことが、遠くからでも分かった。

「やあ、ウイリアム。相変わらず冴えないねえ。」

「おはよう。シャチお坊ちゃんともあろう御方に、こんな場末のお店にまで御足労いただいて、光栄だね。そして名前まで覚えていただいたようで、本当に何よりだ。」

店のことがあるので失礼、と言ったところを、シャチに肩を掴まれた。

「そう邪険にしないでくれよ。あと、言葉は選べよ?それはそうと、少し話をしたいんだ。もちろん、ヨナギちゃんのことさ。」

そう言ってシャチは、取り巻きに後方へ下がっているよう指示した。

「店の中に入ってもいいかい?」

「あいにく、父が店の準備中なものでね。手短に頼む。」

父の目が見えない、などと言おうものなら、何を言われるかわからない。もっとも、別に秘密の話ではないので、シャチが知っていてもおかしくはない。現に、ヨナギが知っていたくらいだ。

 「ふん…しかしまあ、こんな汚い店に、ヨナギちゃんを嫁がせるなんて、あり得ないよね。お前、まさかヨナギちゃんに働いてもらおうとか考えてたわけ?」

俺は何も答えない。

「だんまりか。まあ、今回のことは悪く思うなよ。僕は貴族の子として、僕に相応しい女性を婚約者にしただけだ。その力と金と魅力が僕にはあった、お前にはなかった。それだけのことなんだ。」

重ねて、俺は何も答えない。

「お前は、これからもせいぜい頑張って、身の丈にあった幸せを見つけたらいいよ。目の見えない親父と、この汚い店で。今月も赤字だ、なんて頭を抱えて嘆いたりしながらさ。それが、お前なんだ。わかるだろう?」

俺はシャチをぶん殴っていた。

「貴族ってのは、そんなに偉いのか!何の役にも立っていないくせに、好き放題しやがって。俺だって、自分の身のほどくらい弁えている。それでも、ヨナギを好きになったことは仕方がないだろ。日々働いて、生きていくのがやっとで、それでも頑張って、ささやかな幸せを糧に生きていくことの何が悪いんだよ!」

俺は取り巻きに蹴られ殴られ引きずり倒され、うつぶせのところを乗っかかられ、腕と首を極められた。こうなっては、もうどうしようもない。シャチは俺の頭を踏みつけ、

「生活の糧を失って、女を取られて、喧嘩にも負けて。惨めな男だね、お前は。」

と言って笑った。

シャチに「惨めな男だね、お前は。」と言われ、ついさっき、父に「つまらない男だな、お前は。」と言われたことを思い出した。つまらないのも、惨めなのも、俺のせいでは無いじゃないか、と思った。
昨日今日起こった出来事のどこに、俺の責任があるのか。父が視力を失うとか、貴族に女を取られるとか、俺の選択や意思の問題じゃないだろう。

理不尽な現実もさることながら、無力で無様な自分が憐れで、自然と涙がこぼれる。

「ちょっと!シャチ!やめてよ!」

顔は見えないが、ヨナギの声だ。何をしに来たのだ。

「ああ、ヨナギちゃん。こいつは、この僕を殴ったからねえ。その罪は重い。これから、もうちょっとお仕置きをしなきゃいけないんだけどなぁ。」

「殴ったって…そこまでしたら、もう十分でしょう!あなたの勝ちよ!だから、やめてよ、もう…」

シャチの足が、どかされた感覚がある。シャチが自発的に足を上げたという感じではない。どかされた、のだ。ヨナギが、シャチの足を動かしたのか。地面に押し付けられていた顔を正面に戻そうとすると、シャチの足を掴むヨナギの両腕が見えた。

「…興が醒めたな。お前たちも、もういいよ。」

シャチは取り巻きに指示し、俺は解放された。しかし、地面に伏したままだった。売った喧嘩に敗れ、涙まで流していたのだ。これ以上の醜態をヨナギに晒したくなかった。

「ウィル…!」

「ヨナギちゃんも、そこまでだ。それ以上は許さないよ。」

シャチは静かに、強く言い放った。ヨナギに請われて喧嘩を止めたのだ。条件としては五分の取引だ。ヨナギは何も言わなかった。おそらく、シャチと一緒に離れていったのだろう。最後に、シャチの吐き捨てるような「嫌いなんだよ、お前が。」という小さな声が聞こえた。

周りから人の気配がなくなるところを見図らい、俺は立ち上がって店に戻った。

           *

「何やら人の家の前で派手に暴れてる奴がいるかと思えばお前か。」
「見事にやられとるな。喧嘩をするなら、せめて勝てよ。情けない。」

一言余計だが、父の目が見えている様子なのは何よりだ。少し眩しいのか、時折、目をしぱしぱとさせていた。殴られ蹴られ、腫れて切れた間抜けな顔のことはどうしようもないとして、俺は服の汚れを払った。

「あいにく喧嘩は弱くてな。父親譲りで。」

「俺は世界で一番強いわい」

血の混じったツバを吐き出したくなるくらいくだらないジョークまで言う余裕があるようで、安心した。

「おや、おはようございます、ウィル…」
「ああ、なんともまあ痛そうに。ちょっと治療をするから座りなさい。」

上から下りてきたエドにそう言われ、大人しく治療を受けた。昨日は店に泊まっていったらしい。

治療を行うエドの指が、下瞼の切り傷を捉える。
痛いなぁ。こぼれそうになる涙は、痛みによるものか。喧嘩に負けた、我が身の不甲斐なさによるものか。それとも、ヨナギを奪われたという認識が決定的になったことによるものか。

わからない。

まだ一日は始まったばかりなのに、疲労感でいっぱいだ。朝食すら食べていないのに、なんだかもう、いろいろとお腹一杯だった。
(新章へつづく)
 

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