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対話と僕㉕:『敵を殴る』事で持論を強化するリスク

・はじめに

リアルの場でもSNSでも様々な場面で『敵を殴る』事で持論を展開している人がいる。
過激な物言いは賛同を得やすく、敵がいることがわかりやすさを助長するのであろう。
また『敵の敵は味方』とはよく言ったもので比較的容易に味方を募る事もできるのである。

冒頭から少々乱暴な表現となったが、こういった現象はこの数年モヤモヤしながら体感している問題である。
それが中長期的に持論の推進や展開を妨げる事に無る事は忘れてはならないというのが僕の考えだ。

・何故『敵を殴る』のか

解決したい課題を敵とみなし、『敵を殴る』事で持論を展開・強化する。
何故こういったスタンスになってしまうのか簡単に整理したいと思う。

持論を強化する為に必要なモノの一つが他者からの賛同である。(もちろん他にも色々とあるのだが…
賛同を得る為には持論を整理して伝えることで『理解』『信頼』を得る必要がある。
その為には持論を強化し続ける必要があるし、それを述べるうえで対象となるモノの理解も必要になる。
この流れには一定の時間と労力が必要になるだろう。

そうした労力を削減する為に「敵を作り、それを殴る」事が効果を発揮する場合がある。(自分もこの労力を削減できたらと常々思うのだが…
「よくぞ言ってくれた!」「やはり『敵』が酷いのだ!」と言う味方が集まりやすい
「敵の敵は味方」という形で手っ取り早く賛同を得ることができてしまい、
賛同を得ることで『理解』や『信頼』を得られたように思えてしまう。
こうした体験を繰り返す事で敵を殴らないと持論を展開できなくなってしまうのだ。

・『敵を殴る』事の問題点

僕自身の心の声も漏れてしまったが、一方的に否定もできず誰もが手を伸ばしてしまいたくなる手法なのだと理解している。
ただ、冒頭で述べたように中長期的に見ると問題点の多い手法なのではないだろうか。
僕が感じている問題点をまとめてみよう

  • 賛同を得る為に敵を殴るという逆転現象

  • 敢えて敵を倒さない(課題を解決しない)という矛盾行動

当初は課題を解決する為に持論を展開していたはずなのに、賛同を得られるという快楽を得るために敵を殴ってしまう。
そうすることで得られた賛同で一時的に満たされてしまう
そして、敵という課題が歩み寄ってきたときに前述のようなメリットを度外視して課題解決に向けた動きが取れるだろうか。
また、手を組む以前に相手を理解するような姿勢を取れるのだろうか。
個人的な答えは『否』である。
賛同を、味方を失ってしまう可能性があるからだ。

更に、賛同を得る事や味方を募る事にある種の快楽を覚えてしまうと最早課題解決に向けた動きすら取らなくなってしまう
極端な物言いかもしれないが、普段から不平不満は述べるものの様々な理由を付けて変えよう・変わろうとしない人は一定数いる。
そんな人は課題解決に動く流れが見えてきても一向に動こうとしないし、変えようとしている人に向けて『意識高い系』なんていう揶揄すら向けてしまう
持論を展開する事は課題を解決する為ではなかったのだろうか。
いつから『敵』がいないと困ってしまうようになったのだろうか。

・『敵を作る』事を続けた結果

前述の通り『敵を殴る』事を続けた結果、殴る事が目的になり本来の目的であった課題解決に向き合わなくなってしまう
それ以外にも大きな問題がある。

味方を募るためには前述の通り『理解』や『信頼』を得る必要があり、それには一定の時間や労力が必要にある。
そしてその味方になり得る人は敵であるとは限らず、現時点では敵でも味方でもないのである。
当事者でなかったり気付いていなかったり、あくまでも現時点でその課題に関わっていないだけなのだ。

そんな人から見て『持論を展開する為に人をぶん殴っている姿』はどのように映るだろうか。
その時点で敵になってしまうような急激な変化は起こらないとしても、警戒はされるマイナスの印象からその『課題』に接する事になるかもしれない。
前述のような『理解』や『信頼』を得るにはビハインドになってしまう。
伝え方によっては味方になっていたかもしれない人に敵とみなされてしまうかもしれないのだ。

・最後に

ここまで持論を展開する為に『敵を殴る』事の問題点を述べてきた。
前述の通り『敵を殴る』事を続けていると気付かぬうちに敵が増える
そしてその敵は味方になり得る可能性だってあったかもしれない。
つまり味方になり得た人を失うリスクがあるのだ。
それほど『敵を殴る』事にはリスクが付きまとうのである。

また、いつしか殴る事が目的になり本来の課題解決にすら目がいかなくなる。
敵がいないと持論の主張ができなくなり、課題を解決しなくなる

僕自身もこうした思考に陥ってしまわないように気を付けていきたいと思う。
皆さんも『敵をぶん殴る』快楽に溺れないよう、ここまで述べてきた要素を少しだけでも意識してほしいと思う。
そしてこれを避ける為の能力は『対話』の場で培われると思う。
それについてはまた別の機会に書いてみようと思う。


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