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過去を後悔で埋め立てた

あらゆる分野においてまんべんなく持ち前の不器用さを発揮し、転んでは立ち上がり、立ち上がっては転んでを積み重ねて生きてきた私にとって、「失敗」とはもはや今日を生きるためのステップそのものと言えます。そんな無数の失敗の中で、ほんのちっぽけなことではありますが、毎日思い出す失敗があります。

私史上最も自分に自信がなかった3年前。それはちょうど自分を取り巻く環境が大きく変わった時期でもありました。会う人会う人皆初対面で、彼らのことを認識し、理解するために無意識のうちにそれぞれを自分と比較していました。そういう時ってどうしても人の自分より優れている部分に目がいってしまいます。それを繰り返す日々の中で、もともとこじんまりとしたものだった自信が跡形もなく消え去るのは時間の問題でした。

自信の無さが最も顕著に表れるのが「目線」です。プレゼンしている人の目が泳いでいたりすると、自信なさげな印象を受けますよね。当時の私は目線が泳ぐどころか人の目を見ることができず、常に下を向いていました。大げさではなく、本当にずっと下を向いていたので、当時はその時々に会った人の顔など全く覚えておらず、自分のくたびれたスニーカーしか記憶にないほどでした。うつむいて、笑いもせず、見るからに周りを遮断している人間が誰かに受け入れられるわけもなく、当時の私の生き方そのものが、まさしく「失敗」であったと言えます。

ただ、そんな私も自分の行動によって自分を追い込んでいる自覚はあり、変わりたいと心の底から思っていました。まるでそういう呪いをかけられたかのように上げることのできない顔を、誰かの目を見つめることができない目を、忌々しいこわばりから解き放ちたいと強く思いました。

自分を変えるために私がやったことはいたってシンプルで、「人とかかわることをやめない」で生活していました。とてもシンプルだし、多くの人が何の苦労もなしにできることなのでしょうが、当時の私にとっては本当に困難なことで、ひとつひとつの関わりに心を揺さぶられ削られて、息も絶え絶えといった感じでした。惨めな気持ちは常につきまとってくるし、自己嫌悪は膨らむばかりだし、正直最善策ではなかったと思います。それでも、自分の現状を考えたらこれ以上失うものなんてないし、晒せる恥があるうちは序の口だ、と自分を奮い立たせていました。

そうやって傷ついて、くじけまくって、その果てに「今」があります。今だって自分自身や人とかかわることに絶対的な自信があるわけではないけれど、あらゆる転び方を覚えた分、這いつくばって立ち上がることができるようになりました。そんな今の自分からしてみれば過去の自分はあまりにも不器用で不甲斐なくて、はっきり言って後悔しかないです。辛かったね、よく頑張ったねと声をかけてあげるにも足らないと思います。それでも、過去があるから今があって、その「今」が少しでも良いものになっていると思えるなら、過去の自分を全否定しなくてもいいのだと思います。

私は過去を後悔で埋め立てました。その過去を掘り返すために「今」を生きています。世の中の人たちが未来を目指して生きているのに対してどこか後ろ向きな感じもしますが、自分が前を向くための原動力が時間軸上後方にあるというだけで、私の歩み自体は前進しています。後悔に埋もれた過去を掘り返しながら、自分の未来を創り上げる。そんな生き方をしています。


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