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短編117.『東京都田無市道玄坂』

 道玄坂へと向かうタクシーの中、フロントガラスいっぱいにトラックの荷台が迫る。

 寝起きの頭でも、それが死の数秒前だということは分かる。

 信号は青になり、トラックは猛々しい音と共に走り出した。

 間一髪、三面記事は免れた。

 フレームのない四角い眼鏡をかけた八十過ぎの運転手は地図帳を見ていた。カーナビ全盛のこの時代、地図帳は新鮮だった。同時に懐かしくもあった。懐かしさの源泉はその地図帳が中学の社会科の授業で使う世界地図帳だったからだ。運転手は今アフリカ辺りを見ている。渋谷区道玄坂はアフリカに属するらしい。

 酷く酔っているみたいだ。全てが馬鹿馬鹿しく思えた。IT関係の飲み会は疲れる。子どもの頃、接待のハシゴをすることになるなんて誰が夢見ただろう。

          *

「着きました」と運転手は言った。料金を払い、ドアを開けてもらった。タクシーは瞬時に去った。領収書を見つめる。深夜料金とはいえ、高過ぎた。経理の人間の顔が浮かんだ。

 そこは田無の住宅街だった。民家の塀に付いた住所表記が教えてくれた。浮ついたところなど何処にもなかった。クラブもなければラブホテルもない。ミラーボールも無ければ、客引きもいなかった。街灯は落とされ誰しもが寝静った、闇の中だった。

 この町にも『道玄坂』という地名があるのだろうか。もし、そうならば私のミスだ。恵比寿駅前でタクシーを拾い、「道玄坂まで」と言ったきり、酒眠に落ちた私の。

 いや、本当にそうか?恵比寿から乗って誰が田無まで行く?深夜近いとはいってもまだ終電のある時間だった。田無民なら山手線からの西武新宿線だろう。西東京市にIT長者などいない。偏見かもしれないが。

 そもそも「恵比寿→道玄坂」と言えば、それは即ち渋谷区に他ならない。金曜の夜に十分、十五分の距離を刻む客に怒髪天をついた運転手の策略だろうか。田無に道玄坂があると知ってそこに金の匂いを嗅ぎとった運転手の謀略だろうか。不況の時代、日本にもぼったくりタクシーが出始めたのか。

 土地勘のない場所に降ろされて途方に暮れた男がやることといえば一つ。駅を探すことだ。辺りを見回し、暗闇のなか仄かに夜空が明るい方角を目指す。そこにはきっと歓楽街があり、その先には駅が見えることだろう。どの町だって構造は同じだ。人々の欲望がそう変わらないのであれば。

 令和の今なお暗い夜道を歩く。普段歩き慣れたネオンの道が恋しかった。道の両脇は森のような自然が広がっている。女子になったような気分だ。酔っている今襲われたらひとたまりもない。犯され、雑木林に遺棄される。ーーー発言には気をつけよう。メディアを入れた明日の記者会見を想った。こんなことを言ったら、今のご時世何が起こるか火を見るよりも明らかだ。

          *

 少しずつ文明が顔を見せた。それは懐かしいというよりは救いだった。救済。神の恩寵に触れ得たように思えた。後光のせいか、酷く目が眩しい。後光はキャバクラ・ビルの看板だった。

 駅前に交番があったので、今回の一連の騒動を土産話とするべく尋ねる。
「田無に道玄坂って地名あります?」
 若い警官は酔っ払ったゴミクズを見る目で私を見た。

 それを田無タワーが見下ろしていた。


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