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『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』:2001、アメリカ

 ヘドウィグがヴォーカルを務めるロックバンド“ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ”は、カンザスシティーのチェーン系レストラン“ビルジ・ウォーターズ”でライヴを行った。ライヴの後、ギタリストでヘドウィグの夫でもあるイツハクは、密かにウィッグを着用しようとするが、部屋にヘドウィグが入ってきたので慌てて元に戻した。
 イツハクはヘドウィグにキスしようとするが、テレビで人気歌手トミー・ノーシスが自分たちと同じ曲を歌っているのを聞き、途端に不機嫌になる。イツハクはヘドウィグに「新しい曲を書け」と告げ、部屋を出て行った。

 セントルイスのビルジ・ウォーターズで、バンドはライヴをする。ヘドウィグはトミーを「自分の曲を盗んだ元恋人」として裁判に訴えており、そのことはマスコミにも報じられた。ヘドウィグはレストランの客に、なぜ性転換者の自分が歌手になったのかを語った。
 店の隣にあるスタジアムでは、トミーがライヴを催している。バンドはトミーの後を追ってツアーをしているのだ。

 ビルジ・ウォーターズの計らいで、全ての店舗でライヴをやらせてもらえることになった。マネージャーのフィリスはヘドウィグに、「ストーカーのような行為をすると裁判に不利。それよりトミーと一緒にいる現場を盗み撮りさせましょう」と提案した。ヘドウィグは最近、幼い頃の絵日記を見つけた。
 1968年、東ベルリン。6歳のヘドウィグは、まだハンセルという名前だった。ハンセルは父親の性的悪戯を受け、それを見た母親は夫を追い出した。

 バンドはシカゴへ移動し、ライヴを行う。1961年、ハンセルの生まれた年にベルリンの壁は崩壊した。大勢の人々が自由を求めて西を目指す中、ハンセルの母は東へ向かった。
 ハンセル少年は米軍ラジオを聞いて日々を過ごすようになった。そこから聞こえてくるルー・リードやイギー・ポップ、デヴィッド・ボウイなどにハンセルは強い影響を受けた。

 丘の上で催されたヘドウィグ・アンド・アングリーインチの“メンシーズ・フェア”ライヴには、客が1人しか来なかった。ヘドウィグは彼をステージに呼び寄せ、自分の過去を語った。
 80年代の中頃、20代後半だったハンセルは、壁の近くで裸になって日光浴をしていた。そこへ米軍のルーサー・ロビンソン軍曹が現れ、ハンセルにグミ・ベアを渡して口説いてきた。

 バンドはマイアミに移動し、ライヴを行う。ルーサーに求婚されたハンセルは、彼の妻となって東ベルリンを去ることにした。話を聞いた母は、自分の名前のヘドウィグを使うよう息子に勧めてパスポートを与えた。
 ルーサーは身体検査をパスするため、性転換手術を受けるようハンセルに求めた。ハンセルの母も、「何かを手に入れるには、何かを手放さなければ入けない」と賛成した。しかしモグリの医者による手術は失敗し、股間には1インチの突起物が残ってしまった。

 バンドはボルティモアへ移り、ライヴをする。太った客が「カマ野郎」とヘドウィグを罵り、イツハクが飛び掛かって乱闘騒ぎに発展した。
 1988年11月9日、ヘドウィグはルーサーと結婚し、カンザス・シティーに移った。だが、すぐにルーサーは、ヘドウィグをトレーラー・パークに残して去ってしまった。ヘドウィグはテレビのニュースで、ベルリンの壁が崩壊する様子を目にした。

 ロードアイランド州プロビデンス。ヘドウィグはフィリスと共にトミーのイベントに乗り込もうとするが、警備員に追い払われた。フィリスが隠し撮りのプランを撤回し、ヘドウィグは苛立った。
 ルーサーと別れた後、ヘドウィグは様々な仕事で日銭を稼いだ。近くの基地のスペック司令官の子守もやった。ヘドウィグはスペックの上の息子である17歳のトミーと出会い、気に入った。

 ヘドウィグは韓国人軍曹の妻クワン・イーたちと初代アングリー・インチを結成し、ライヴ活動を始めていた。ヘドウィグはバンドの名刺をトミーに渡し、ライヴ会場に招いた。ヘドウィグはギター・グループをやっていたトミーに歌詞の書き方や歌唱方法を教え込み、ノーシスという名前を与えて共作した。2人の演奏は小さな規模で評判となり、音楽に専念できるだけの稼ぎを得た。
 ある日、ヘドウィグは父の暴力を受けたトミーを介抱してやった。トミーはヘドウィグにキスしようとするが、股間の突起物を知ると逃げるように去った。そしてトミーはヘドウィグの曲を自分の作品として発表し、ロック・スターとなったのだ。

 バンドがニューヨークに到着した時、フィリスは資金が尽きたことを打ち明けた。イツハクは密かに受験したミュージカル「レント」のオーディションに合格し、バンドを抜けると言い出した。イツハクは「もう疲れた、離婚しよう」と言うが、ヘドウィグは無言で彼のパスポートを破り捨てた。
 フィリスは「もう私の助けは無用ね」と言い残し、イツハクの肩を抱いて部屋を去った。3週間後、立ちんぼになっていたヘドウィグは、トミーと再会を果たした…。

 監督はジョン・キャメロン・ミッチェル、脚本はジョン・キャメロン・ミッチェル、製作はクリスティーン・ヴェイコン&パメラ・コフラー&ケイティー・ルーメル、製作総指揮はマイケル・デ・ルカ&エイミー・ヘンケルズ&マーク・タスク、撮影はフランク・G・デマルコ、編集はアンドリュー・マーカス、美術はテレーズ・デプレス、衣装はアリアンヌ・フィリップス、音楽はスティーヴン・トラスク。

 出演はジョン・キャメロン・ミッチェル、アンドレア・マーティン、マイケル・ピット、アルバータ・ワトソン、ミリアム・ショア、スティーヴン・トラスク、ロブ・キャンベル、セオドア・リシンスキー、マイケル・アラノフ、モーリス・ディーン・ウィット、ベン・メイヤー=グッドマン、マックス・トゥルチ、イ・ソクイン、カレン・ハインズ、エルメス・ブララシン、ジーン・ピルツ、マギー・ムーア、レナト・オプションズ他。

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 俳優のジョン・キャメロン・ミッチェルと作曲家のスティーヴン・トラスクが構想し、1997年からオフ・ブロードウェイで上演され、ロングランを記録した舞台劇の映画化。サンダンス映画祭最優秀監督賞&最優秀観客賞、ベルリン国際映画祭テディー・ベア賞など数々の賞を受賞した。
 ヘドウィグを演じるのは舞台版と同じくジョン・キャメロン・ミッチェルで、監督と脚本も担当。

 全ての楽曲を担当したスティーヴン・トラスクは、バンドのギター奏者スキシプとして出演もしている。とにかく劇中で演奏される楽曲のクオリティーが素晴らしいのだが、ここが映画の生命線と言ってもいいわけだから、スティーヴン・トラスクの貢献は相当に大きい。
 イツハク役のミリアム・ショアは舞台版からの続投。舞台ではミッチェルが一人二役でトミー役も担当していたが、映画版ではマイケル・ピットが演じている。

 ざっくり言うと、「バンドがレストランで演奏」→「ヘドウィグが自分について語る」→「回想シーン」→「その後の展開やヘドウィグの心情について歌で説明するレストランでの演奏」という手順が繰り返される構成となっている。
 バンドが演奏する曲はパンキッシュで激しいモノだけでなく、マイアミで演奏する曲はカントリー・ロックっぽいし、バラードもある。

 時系列順で真っ直ぐストレートに進行するわけではなく、過去と現在を行ったり来たりする。幻想的な表現も多く含まれており、ある意味、ひねくれた作りと言える。ただし、それによって分かりにくくなっているということは無い。
 オフ・ブロードウェイで長く上演されていたとは言え、舞台演出と映画演出は全く別の作業だ。それを考えても、ジョン・キャメロン・ミッチェルが本作品で見せた手腕は、かなり良いと言っていいだろう。

 ただし時間の都合上でカットされた場面があり、それによって分かりにくさが生じた部分があるのは痛い。
 具体的には、イツハクのキャラ設定に関わる部分が削除されている。「イツハクはザグレブでドラッグ・クイーンだった。ツアー先で出会った彼に求婚されたヘドウィグは、二度とウィッグを着用しないという条件で受け入れた」という部分がカットされているのだ。

 ウィッグを被ろうとしたイツハクが、ヘドウィグの入室に慌てて誤魔化すのは、そういう約束があったからだ。イツハクがヘドウィグに対して苛立ちを覚え、バンドから去ろうと考えるのは、ウィッグを着けてステージに立ちたいという欲望を抑制されているからだ。
 終盤、ヘドウィグがトミーのメイクになり、イツハクにウィッグを与える幻想的なライヴのシーンは、「ありのままの姿」でいいんだと気付いたヘドウィグがイツハクにも「ありのままの姿であれ」と勧める意味を持っている。
 だが、前述した部分のカットにより、その辺りが意味不明になってしまっている。特にラストの場面は、かなりのダメージだ。ここは厳しいな。

 作品のテーマとなっているのは、プラトンの対話篇『饗宴』で喜劇作家アリストパネスが語る「The Origin Of Love(愛の起源)」だ。
 エロスを賛美する演説をすることになったアリストパネスは、「元々、人間は顔が2つ、手足が4本あった。そして男&男(アンドロス)、女&女(ギュネー)、男&女(アンドロギュノス)の3種類が存在した」と語る。

 やがて増長した人間は、神々に戦いを挑もうとした。怒ったゼウスは人間の体を雷で真っ二つに引き裂いた。2つに分離した人間は、アポロンによって今の姿となった。
 そういう経緯があるため、人間は失った片割れを求める愛(エロス)を抱くようになった」というのが、アリストパネスの演説だ。劇中では、ハンセルが母親からその話を聞かされる。

 シカゴのビルジ・ウォーターズでヘドウィグが歌うのが、そのアリストパネスの話を基にした曲「The Origin Of Love」だ。ここではライヴ演奏の様子と共に、歌詞の内容を映像化したアニメーションが挿入される。
 これが「策士、策に溺れる」にならず、上手い効果となっている。パラパラ漫画的なアニメの絵柄も、映画にフィットしている。

 ヘドウィグは自分が人間として足りていない、不完全な状態だと考えている。そして失われたはずの片割れ、どこかにあるに違いない片割れを探す旅に出る。
 それは肉体を動かして各地を回る旅という意味だけでなく、心の旅、思想を巡る冒険でもある。そしてヘドウィグはトミーの謝罪を込めた歌によって、「君が求める片割れなんて、どこにも無いんだよ」と教えられる。

 そしてヘドウィグは、「ありのままの自分を受け入れよう」という答えに辿り着く。
 今の姿が完璧だというわけではない。欠陥、欠点があることは確かだ。しかし、その不完全な姿こそが、人間としてあるべき姿、そもそもの形なのだという答えに至る。完璧な人間などいないのだ。
 コンプレックスを抱く人々にエールを送り、自分探しの不毛な旅を続けている人に歌を通じて助言する、人間賛歌の音楽映画になっているのだ。

(観賞日:2008年4月5日)

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