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兵役免除となった日本兵の軍隊手帳

軍隊手帳とは

軍隊手帳とは軍人が所持している手帳のことで、その多くは身分証明書や履歴書、軍人としての心構えなどが記載されている。
旧日本軍にも軍隊手帳は存在していたが、「手帳」であったのは陸軍将兵に配布されたもののみであり、海軍の軍隊手帳に相当する「履歴表」は手帳の形式ではない。
軍隊手帳の中でも時代によって記載されている内容に若干の違いはあるが、どの時代の軍隊手帳にも下記のものが記載されていた。
軍人勅諭
軍隊手帳に係る心得
応召及出征時の心得
個人情報
昭和17年(1942年)以降に刊行された軍隊手帳には各勅諭に加えて「戦陣訓」も記載されていた。

左から明治期、大正期、昭和期の軍隊手帳。
右端の軍隊手帳は戦陣訓が載っている戦争後期のモノであり他の個体と比べて粗悪な作りに感じる。

兵役免除となった日本兵の軍隊手帳

この軍隊手帳を所持していた日本兵は戦地で肺結核に罹病し兵役免除となった。

前述の通り軍隊手帳には勅諭などの他に身分証明書としての役割りの為に個人情報が記載されている。この小さな手帳一つ一つに将兵の生き様が記録されているのだ。今回は当方が収集した軍隊手帳の中から戦地で罹病し内地送還を経て兵役免除となった日本兵が所持していたモノを紹介する。

所有者の出身は長崎県である。
軍隊に入る前の昭和16年(1941年)12月に盛岡高等農林学校林学部を卒業している。この時期に日本海軍の機動部隊が米太平洋艦隊の基地が置かれていた真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。

年が明けて昭和17年(1942年)2月1日臨時召集を受け西部第47部隊本山隊に入隊し2ヶ月後には第2中隊に転属となる。
「西部第47部隊」とは歩兵第146聯隊補充隊のことであり、聯隊の主力は混成第56歩兵団(通称:坂口支隊)の基幹部隊としてビルマ作戦に投入されていた。

第2中隊に転属と同時に陸軍一等兵に進み兵科幹部候補生となり、約20日後には乙種幹部候補生として上等兵に進んでいる。
幹部候補生ならではのとても早い昇進である。

旧日本陸軍の幹部候補生には「乙種幹部候補生」と「甲種幹部候補生」の2種類が存在している。前者は予備役下士官としての教育を受けるものであり、後者は予備役将校としての教育を受けるものである。

所有者の履歴

9月1日に伍長に任官。12月16日に松山西部軍歩兵乙種幹部候補生教育隊に分遣を命じられ幹部候補生としての教育を受け、教育は翌年5月29日に終了し原隊に復帰している。
7月1日軍曹に昇進。8月31日には現役満期除隊となり翌日には予備役に編入となったが戦時下であるので同日に臨時召集を受け再度西部第47部隊に入隊となる。
また適任証書の欄によるとこの日に陸軍将校勤務適任証書を与えられている。

12月10日「軍令陸甲第115号」により固第6794部隊の臨時編成が始まり昭和19年(1944年)1月2日同部隊に転属となった。
「固第6794部隊」とは独立歩兵第227大隊歩兵砲隊のことである。
北支方面軍部隊の略歴によるとこの部隊は福岡県及長崎県出身者を以て主力は予備役の将兵であったとある。

長々と記載された所有者の履歴。左端に「兵役免除」の文字が確認できる。

部隊は編成が完了すると釜山に上陸して朝鮮半島から満州国を経て中華民国に入り山西省の孟県城に到着。
この時孟県に展開していたのは大隊本部と第4中隊、歩兵砲隊の通信隊の主力であった。
部隊の主な軍務は鉄道警備であり軍隊手帳の所有者は孟県付近の警備の軍務に従事しているが、到着から間も無く肺結核に罹病。
陽泉陸軍病院、北京第二陸軍病院、奉天陸軍病院と転院を繰り返した。

部隊が山西省孟県で警備任務を始めた時期は大陸打通作戦の直前であったのでこの鉄道警備も作戦と関係があったのかもしれない。

月が明けると遂に内地送還となり大連から門司港に向けて出港。
4月6日小倉陸軍病院に入院。所属部隊は西部第46部隊に転属となった。
「西部第46部隊」は独立歩兵第227大隊補充隊のことである。

その後は福岡陸軍病院に転院となったが、後に武官服務令第38条により兵役免除となった旨が記されている。
この記述を最後に軍隊手帳の履歴の記入は終わっている。

戦争が終わる一年前に兵役免除となったこの方のその後は判明しない。
闘病の末に亡くなられたのだろうか、それとも戦争の時代を生き抜いたのだろうか。






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