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福岡市での過去プロジェクトの紹介

どうも、こんにちは。岩淵です。皆さん、お元気でしょうか?

初めましての方に簡単に自己紹介をすると、僕は現在、大学院博士課程で都市計画・建築分野で研究しながら、URBANIX株式会社という会社を経営している27歳です。

さて、今回のnoteですが、「創造性を高める"ソフト"なインフラづくり【福岡市での過去プロジェクトの紹介】」と題して、いわゆる多文化共生的なテーマで語っていきたいと思います。

実は、今の研究や事業をする前の修士課程在籍時代は「コミュニティ・ハブ」という研究やプロジェクトをしていました。具体的には、福岡市やCode for Japan、Code for Fukuokaのご協力の元、日本語教室の情報をオープンデータ化し、ウェブサイト上に可視化させるような取り組みです。

現在、会社や大学院でしている事業や研究は、いわゆる都市のイノベーションやクリエイティビティのような領域です。上記のプロジェクトを見ていただいた方は「外国人支援?今と全然違うじゃん!」と思うかもしれません。実際に、当時も「岩淵くんは外国人支援をしたいんだね」とか「地域の国際化に関心があるんだね」みたいなことをよく言われていました。

僕の街づくりに対する根本的な考え方は当時も今もそれほど変わっておらず、テーマは「個人の可能性の拡大」とそれに貢献するような「都市環境づくり」です。なので、別に外国人支援がしたかったわけでも、地域の国際化が進めたいわけではなかったんです。だから、当時の僕への解釈に対して「そういうことじゃないんだよなぁ」とモヤモヤしていました。

結局は、自分の力不足もあり、そのプロジェクトや研究は一旦お休みすることにして、現在の取り組み移行していくことになりました。今となっては非常に良い勉強になったなぁと考えています。

今回のnoteでは、過去のプロジェクトについて、現在の僕の視点から捉え直していけたらと思います。街づくりについてこれから頑張って発信していこうと思っているので、応援のいいね!やフォローをお願いします😊


プロジェクト「コミュニティ・ハブ」について

「コミュニティ・ハブ」という概念について

他国の事例を踏まえた筆者による定義

コミュニティ・ハブとは、地域社会の交流拠点であり、多機能サービスや地域住民の社会分野的・想像的活動が集積した結節点です。

「コミュニティ・ハブ」の他国事例

これらの事例から分かるように、国外の「コミュニティ・ハブ」事例はその国によって異なる特性を持っていますが、いわゆる地域の多機能サービス拠点のようなものであることがわかります。

僕が進めていたプロジェクト「コミュニティ・ハブ」について

僕が進めていたプロジェクト「コミュニティ・ハブ」は、一言で言うと「日本語教室の情報のインターネット上での可視化」です。

日本語教室とは、地域ボランティアや行政職員によって運営される基本無料の日本語教育や交流のための地域活動です。民間企業が運営する有償の日本語学校とは異なるものです。公共施設で実施されることが多いです。

日本語教室について(筆者による定義)

日本語教室は、その名称から日本語教育機関と捉えられがちですが、実情は少し異なり、地域住民との交流や生活の相談の場としての役割が大きいです。そういう意味で、日本語教室は日本語教育機関より、前述した国外の「コミュニティ・ハブ」の特性に似ている活動です。

ちなみに、営利企業として運営している日本語学校は、外国人の分布が多い都心部に集中しがちですが、日本語教室はそれぞれの地域に最低一つは所在しており、日本語学校と比較して分布の偏りが弱いです。

福岡在住外国人の地域社会包摂に向けた. コミュニテイ・ハブ理論 応用に関する考察(岩淵,2022)

日本語教室は、非営利型の取り組みであり、ボランティア従事者はご高齢の方が進めていることも多く、実施頻度は多くても週に1度であり、公民館での貼り紙や地域ボランティアからの声かけによって周知されています。

一方で、外国人は若年層が多くを占めているため、インターネットやSNSを主な情報入手のツールとして利用しており、情報が十分に届かないことも少なくありません。また、日本語教室の情報は各市区町村が管理していたため、情報や連絡のためには日本語教室への参加希望者が居住する市区町村の連絡しなければならず、日本語教室の取り組みや所在地を網羅的に調べることができるツールはありませんでした。

そのため、私は、福岡市やCode for Japan、Code for Fukuokaのご協力の元、日本語教室の情報をオープンデータ化し、ウェブサイト上に可視化させるような取り組みを行なっていました。福岡県内であれば、日本語教室を網羅的に検索することができる他、それぞれの日本語教室が開催される日時や料金、活動内容等の個別の情報についても確認できるようになりました。

取り組む中で苦労したこと

しかしながら、結論から言うと、このプロジェクトは全くうまくいかず、クローズドすることになりました。今振り返ると、いくつかの課題についてクリアできなかったところが要因であったように思います。以下、いくつかうまくいかなかった点をまとめてみました。

1. 収益化は極めて難しいことがわかった

予想通り、持続可能な収入を得ることが不可能でした。というのも、いわゆる高度専門人材ではない技能実習生や留学生については、経済的に不安定であり、日本語学校に通うことですらも借金をして通っている人も多いからです。日本語教室の担当者についても、ボランティアで行なっており、参加費も外国人から取ることは難しいため、自治体から公共施設を無償で提供してもらう進めていることが多いです。民間が入っていくには、ハードルが高すぎる領域でした。

2. ボランティア従事者のネット利用へのハードルが高かった

日本語教室の担当者はご高齢の方が多く、僕の所感では、従事者の約8割が60代以上でした。EmailやZoomですらも使うことに慣れていない人が多かったので、インターネット上での情報の可視化は極めて難しかったです。

その対策として、様々な方のご協力を得ながら、ネット上のフォームに入力すれば自動でWebページが生成され、情報更新ができるような仕組みをつくりました。また、自治体関連団体の方々と連携して、サイトの使い方講座を開催したり、日本語教室に赴いて使い方を説明したりしたのですが、ご担当の皆さんが使いこなすのは難しかったようで、中々定着はしませんでした。加えて、インターネットや情報公開について不快感を持つ方も多く、理解を得ることにとても苦労しました。

実際のところ、日本語教室の情報は、僕が取り組みを進める以前からpdf形式でWeb上に公開されていたのですが、私のような第三者がそれを使用するにはそれらの情報を「オープンデータ化」する必要がありました。まずは、自治体にオープンデータの申請を行い、自治体を通して全ての日本語教室から許諾をとり、許諾が取れた日本語教室の情報を掲載していました。これだけでも、半年くらいかかってしまいました。活動の中では、「日本語教室を商業利用しようとしているビジネスマン」と怪しまれたこともあり、中々うまく進めることがうまくできませんでした。

3. あったら便利かもしれないけど、絶対に必要なものではなかった

今振り返ると、日本語教室情報の一括検索機能は「あったら便利かもしれないけど、絶対に必要なものではない」ものでした。このプロジェクトを始めた当時、僕はみんな共感してくれると思っていたし、みんな協力してくれると思っていました。なぜなら社会的意義の大きいものであると信じていたし、社会からの要請にも応えているように思えたからです。でも、実際にやってみて、そんなに甘くないということを痛いほど実感しました。社会は、様々な要素が絡み合う極めて複雑なものであり、社会課題の解決の必要性を唱えるだけでは人も社会も動かないということを学びました。

最近のSDGsや社会課題解決と叫ばれるものの中には、時に「行き過ぎた課題解決ドリブン」になっていることがある気がします。社会のことを考えて頑張っていると思っていたら、ただの強烈な個人のエゴの押し出しになってしまっているような状態です。僕も社会課題の解決を主張していただけで、「こうあるべきだ!」のようなエゴを社会に対して押し付けていただけだったように思います。

本来、僕が伝えていくべきだったことは「社会課題解決の先に待っている理想の社会像」だったはずです。そこの理想像と僕の取り組みの間にある関係性やつながりを十分に伝えることができなかったところに僕の大きな勘違いと失敗の原因がありました。

国外の「コミュニティ・ハブ」にあって日本語教室になかったもの

国外の「コミュニティ・ハブ」にあって日本語教室になかったものを考えてみました。まず、イギリスやイタリアのコミュニティ・ハブの事例については、発足の背景は社会的な包摂が主なものでしたが、目的設定として地域活性化に置いており、経済的な側面についても活動に反映されていました。経済的な持続性の担保や運営体制の整備についても十分に考慮されています。また、自治体の関与も積極的でした。一方で、日本語教室は、日本語学習や外国人の地域への包摂を目的としたボランティア活動であり、その従事者の主体性や"思い"に委ねられている部分が強いです。日本語教室は外国人の生活や学習についてその課題を解決するもので、如何に外国人の言語や生活の問題が解消できるかがポイントでした。しかしながら、実際に、長期スパンで持続可能な仕組みを作るためには、課題解決の先にある理想の社会像をイメージしながら制度設計を進めるべきでした。オーストラリアのコミュニティ・ハブの事例については、日本語教室の活動事例に類似しているものの、その社会的意義を地方や国がいち早く察知し、国としてきちんと制度化したことが成功事例として広まった理由かもしれません。

プロジェクトの根底の哲学を改めて考える

さて、ここまでプロジェクトについて振り返るなかで、僕自身では多くの反省と学びがありました。特に、「社会課題解決の押し付け」だった部分については、改善の余地があったと思います。そこで、僕が本来すべきだった「理想的な社会の姿」について最後に考えてみます。

このプロジェクトの発足時のビジョンは「違いの交錯から”感動”と”創造”が生まれる社会をつくる」(https://glocalhubs.com/who-we-are/)でした。ここでわかるように、そもそも私は外国人支援をしたかったわけではなく、多様な文化や価値観が混ざり合う空間や環境がつくりかったわけです。

僕は、学部生時代、運良くスウェーデンに1年間、交換留学に行く機会をいただいたのですが、そこでは、現地の学校でインターンをしたり、北欧の教育福祉制度、街づくりへの考え方を学びました。

そこで、スウェーデンの教育福祉や街づくりが「多様性を前提とした環境づくり」を進めていることに感銘を受けたのを今でも覚えています。

例えば、スウェーデンの小学校では、移民難民の背景をもつ子どもも多くいるために、一つの教室の中にも多様な年齢や人種、国籍、宗教をアイデンティティとして持つ子どもが共存しています。子どもたちに対して個々のサポートも勿論しているのですが、教育の仕組みやルールづくりにおいても「多様性を前提としたアプローチ」を徹底していることでした。イスラム教の子どもであってもキリスト教の教会に社会見学に行きます。親に反対されても教師が親に理解を促します。教科書でもあらゆる宗教の背景や歴史について説明しており、子どもたちは自身の宗教以外についても学びます。発達障がいを持っている子どもも極力同じ空間で授業を受ける環境に置くように努めます。つまり、個人の社会的背景に関わらず自己実現できるように、空間づくりや環境づくり、ルールづくり、コミュニティづくりにおいて、社会参画するための余白や相互扶助的なアプローチが大切にされていました。これは、一方向的な"支援"のような考え方とは大きく異なるものでした。

当時ずっと考えていたこと:多様性をどのように担保し、如何にイノベーションに繋げるか

スウェーデンの現地の学校でのインターンで、子どもたちと信頼関係がつくれずに苦戦していたとき担当の先生に言われたアドバイスが今でも強く印象に残っています。

子どもたちの個々の課題や悩みをいきなり解決しようとする前に、あなた自身の視点の多様にするところから始めてみてください。

日本では、日本の社会慣習や教育における「画一性」や「保守的な風土」がよく問題視され、多様性の重要性を説き、多様性を推進しようとします。「多様性の推進」と言われれば、聞こえは良さそうですが、この先生の言葉を踏まえると、多様性は目標でも目的でもなく、物事の仕組みを考えていく上での「前提条件」であるように思えるんです。僕らが、個々人の違いを認識し、それを前提に、社会を見れているか、という「問いかけ」をしなければいけないはずです。

街づくりについて考えるときも、そこで歩く、生活する、働く個人の多様なニーズに気づけているか、です。都市デザインを考えるときに、どのくらい多くの個人の視点を持てるかが重要です。

学術的には少し古いかもしれませんが、都市経済学者であるRichard Floridaがクリエイティブ都市論の中で、地域経済の活性化において「寛容性」や「多様性」が重要である、と語っています。同著の中で「技術・才能の要素があるのに地域経済が発展していない地域は、寛容性が欠如している場合がある」とまで言及しており、つまり、創造的な街づくりにおいては、国籍や人種などの多様性や、その多様性を受け入れるための寛容性の担保が重要であることを強調しています。

Richard Florida -クリエイティブ都市論-

多様性は社会の中での視点や価値観、考え方の多様性を増やし、それらの違いの交錯から新しいプロダクトやサービスを生み出すはずです。そう言う意味では、「違いの交錯から”感動”と”創造”が生まれる社会をつくる」と言うのはあながち悪くなかったのかもしれません。

これからの街づくりの着眼点:有機性

物理的なインフラであるハードウェアが整ってきて、スマートシティやスタートアップ、テクノロジーのようなソフトウェアが注目されてきたのが昨今の街づくりです。

効率性や便利さは発展してきた一方で、街が面白くなくなってきた、のような意見も聞こえます。これからは人間的な部分、「ヒューマン」への意識に今一度回帰していくのではないでしょうか。

「都市の“有機的な”一体性を保つことはできるのか」というのは、これからの街づくりにとって結構重要なテーマかもしれません。有機性とは、「多くの部分から成り立ちながらも、各部分の間に密接な関連や統一があり、全体としてうまくまとまっているさま」を指します。

都市化の進行に伴い、公的サービスの質や経済成長起きたものの、過密化や孤独、社会的分断など、さまざまな問題が生じています。改めて、人間的な視線に回帰し、「本当に人々のウェルビーングは高めているのか?」や「住民の多様なニーズを街づくりに反映できているか」、「個人の内面的な価値や独自性の探求ができているか」、「即時的な消費や表層的な交流ばかり増えていないか」など、人間的な視点に立ち戻り、改めて街づくりのあり方を考える必要があるかもしれません。

僕が個人的にこれから考えていかなければいけないと考えているのは上記の3つのポイントです。ミクロな(個人の)感性をどれくらい都市で拾い上げることができるか。ミクロな活動をどれだけ地域全体の利益に発展させることができるか。多様性や寛容性をどのように担保できるか。効率性を時に阻害してしまう「こだわり」のような創造性の種を都市環境の中で如何に埋めていくか。

そんなことを考えなければいけないかもしれません。

是非、皆さんのご意見をお聞かせください。

それでは、また。

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