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六歌仙のなぞ(番外編)前

 前に発表した『六歌仙のなぞ』には、実は第六章があったのです。当時、材料はほぼそろっていたものの、うまく考えをまとめられず、メモの状態のまま二十年も放置していたものです。
 今回noteで『六歌仙のなぞ』を発表したので、この際もう一度そのメモを基に、未発表部分を書いてみたいと思います。

伝説の作り手と伝承者

◆仮名序の喜撰と人麻呂の歌◆

 『古今和歌集(以下、古今集)』の仮名序で、貫之は喜撰法師の歌を次のように評している。
 「宇治山の僧喜撰は、ことばかすかにして、初め終わりたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし」
 これが何を意味するかについて考えてみたい。
 『六歌仙のなぞ』(第三章)で、私は喜撰法師とは真済僧正ではないかと推理した。真済僧正は文徳天皇の護持僧を勤めた真言僧で、伝説では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を、皇太子の惟仁親王(第三皇子)に代わって皇位継承させようと祈祷を行うが、その験なく失意の内隠居したという。その隠居所が大和国の柿本山影現寺だった。
 影現寺は柿本氏に縁ある場所にあり、境内には柿本人麻呂を祀る人麻呂堂がある。真済を別名柿本紀僧正というのは、これに由来する。

 「東野ひんがしのの炎立かぎろいたつを見えて 反見かえりみすれば月かたぶきぬ(月西渡)」
 これは、軽皇子(文武天皇)が安騎野あきのに行ったときに、同行した柿本人麻呂が詠んだ歌で、季節は冬である。(十二月の下旬。冬至の頃)
 一方、紀貫之が喜撰法師(真済)を評した仮名序は「秋の月」。季節は秋である。
 柿本人麻呂の「東野に・・・」の歌は軽皇子の成人を詠ったもので、皇子を冬至の太陽に見立て、古い太陽が死に、新しい太陽に生まれ変わることを、皇子が子供から大人へと成長したことになぞらえたのだという。
 一方、真済も元服したばかりの惟喬親王の為に祈祷をしている。

 以上を踏まえて、仮名序と人麻呂の歌を比べてみると、「秋の月」は「炎立つ(冬至の太陽)」に対応し、「暁の雲」は「月西渡つきかたぶきぬ」に対応していることに気付く。
 「暁の雲」は東の空にあった。(秋の月を見ようとしたら、暁の雲「夜明けの光に照らされる雲」に思いがけずあってしまった。)
 それに対し、「東野に・・・」では月は西に出ていた。(反見すれば月西渡)
 つまり、この仮名序で貫之は、喜撰法師(柿本紀僧正)と柿本人麻呂を鏡写しに対応させているとはいえないだろうか。
 軽皇子が天皇に即位できたのに対し、惟喬親王はできなかった。「初め終わりたしかならず」夜明けの雲で、月も見えずらくなってしまったのだった。

◆『竹取物語』の示すもの◆

 清和天皇時代(藤原良房、基経時代)を、文武天皇の時代(藤原不比等時代)になぞらえているところは、『竹取物語』にも通じる。『竹取物語』は九世紀ごろに成立したといわれるが、作者は不明である。
 実は物語の登場人物にはモデルがあるという。江戸時代の国学者加納諸平は『竹取物語考』の中で、かぐや姫に求婚する五人の貴公子を、文武天皇の時代[697~707]の実在の公卿に比定している。

  <登場人物>       <モデルになった人物>
  石作皇子―――――――――左大臣 多治比嶋
  安部御主人――――――――右大臣 安部御主人
  大伴御行―――――――――贈右大臣 大伴御行
  車持皇子―――――――――大納言 藤原不比等
  石上麻呂足――――――――大納言 石上麻呂

 物語の作者は藤原氏の専横政治を揶揄する目的で、これを書いたという。その訳は、藤原不比等に比定される車持皇子というキャラクターが、五人の中で一番ずるがしこく描かれているからである。
 諸平は、五人を「天下の執政ながら、色好みなるを誹りて作れる書なればなり」とし、物語は文武天皇当時の公卿の風紀の乱れを批判して書かれたとしている。

 それに対し、物語の成立した九世紀頃の藤原氏による政治を批判する目的で書かれたとするのは、作家の杉本苑子氏である。舞台を少し昔の八世紀の文武朝とし、ファンタジー仕立てにすることで、直接的な政権批判と分からないようにしたのだろう。
 杉本氏によると、作者は紀氏の可能性が高いという。というのは、五人の貴公子のモデルになった公卿たちと同時期の大宝年間、大納言以上の高官の中で、一人だけ名前が抜け落ちている人物がいるのだ。それは紀麿(麻呂)である。
 かぐや姫に求婚した五人は、結局ひどい目に遭ったり、狡猾さがばれて退散するなど、徹底して揶揄の対象として描かれているが、作者が紀氏だから、紀麿だけは入れなかったというのだ。
 杉本氏は、九世紀の人間で、『竹取物語』のような優れた文学を書けそうな人物として、紀長谷雄と紀貫之をあげている。そして、仮名文体で書かれていることなどから、貫之が作者ではないかとみている。貫之は『土佐日記』や『古今集』の序文を、当時女性が主に使用していた仮名文字を使って書いている。
 また、紀長谷雄も『貧女吟』のような、『竹取物語』とよく似た話を書いているところから、長谷雄が漢文体でプレ竹取物語と言えるような話を作り、それを貫之が仮名文体で完成させた可能性もあるだろうという。

 因みに『貧女吟』とは、大勢の男性に求愛された女性が、ことごとく拒み続け、やっと結婚するものの、結局苦労をしてしまうという話である。(紀長谷雄は、また『東大寺僧正真済傳』という伝記も残している。)
 『貧女吟』の主人公はかぐや姫を思わせるが、また、小野小町伝説も連想させる。小町の伝説にも、多くの男性の求愛を拒み続けたせいで、晩年は零落れ、悲惨だったという話がある。小町は貫之より一世代前の人だが、貫之の時代には既に伝説化していたのだろうか。
 多くの恋歌を残し、色好みの美女と思われた小町。『貧女吟』が小町伝説の祖型とすれば、『竹取物語』と小町伝説は、姉妹のような関係といっていいだろう。

◆衣通姫=小町=かぐや姫◆

 「小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは、女の歌なればなるべし」(『古今集』仮名序)
 衣通姫は美しさが光となって、衣を通して輝いたという。まさに「かぐや姫」そのものである。小町が衣通姫流というのなら、小町はかぐや姫ともいえるだろう。

 「よき女のなやめるところあるに似たり」の悩めるよき女とは、中国春秋時代の越の美女、西施せいしのことと考える。西施は胸に持病があり、時々痛みで眉をひそめることがあった。それがまた悩ましく、美しかったそうだ。(「顰に倣う」の故事)
 小町は衣通姫や西施のように美しく、その美しさは歌にも表れているということだ。衣通姫は和歌山県和歌浦の玉津島神社に和歌の神、玉津姫として祀られている。和歌山は紀伊国であり、紀氏の本貫である。

 実は衣通姫は二人いる。「六歌仙のなぞ」でも少し触れたが、允恭天皇の皇女(軽大郎女かるのおおいらつめ)と、允恭天皇の皇后(忍坂大中姫おしさかのおおなかつひめ)の妹(弟姫おとひめ、衣通郎女)である。このうち弟姫は允恭天皇の妻になったが、姉の皇后の嫉妬により遠ざけられる。
 一方、西施は越王勾踐こうせんによって、敵対する呉王夫差ふさのもとに送りこまれた。美女の色香で国政を腐敗させ、国力を殺ぐのが、西施に課せられた使命であった。西施は見事に任を果たして国に帰ったが、越王が西施に心を奪われることを恐れた王妃によって殺されたのだった。

 小野小町は実像のよくわからない謎の多い人物だが、衣通姫や西施のように、彼女もまた天皇の妻で、しかしその結末はよいものではなかったというのか。いずれにしても、小町は傾城の美女と、貫之は捉えていたということは間違いないように思えるのである。

(番外編)後に続く。



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