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江戸城を守護する二つの寺②寛永寺

 寛永寺を端から端まで周ろうということでJR山手線鶯谷駅で下車した。寛永寺に行く前に下谷の小野照崎神社に立ち寄ったが、それについては後述する。

 東叡山寛永寺は寛永二年[1625]に、慈眼大師天海大僧正により創建された。徳川幕府の祈願寺という位置づけだが、後に四代将軍家綱の霊廟が造営されたことから、菩提寺も兼ねることになった。

 東叡山とは東の比叡山という意味が込められていて、天海は京の鬼門を守護する延暦寺と同じ呪術的機能を江戸の寛永寺にそっくり持ってこようとしたのだ。
 最初、東叡山という山号は川越の喜多院につけられていた。この喜多院の住職こそ天海だった。慶長十六年[1611]家康は喜多院を訪れ、天海と会っている。山号を星野山から東叡山に改めたのはそれより後(慶長十八年)のことになる。

 しかし、川越は江戸からから少々離れすぎているし、鬼門というには苦しい。
 そこで忍が岡(上野山)に新しく寺を作ることにしたのだ。当時、藤堂高虎の屋敷が忍が岡にあり、その土地を勧められたという。高虎は家康の熱心な信奉者で、自宅の敷地に東照宮を建てて祀っていたほどだった。

寛永寺根本中堂
江戸時代の根本中堂は上野戦争で焼失
この建物は明治12年、喜多院の大慈院の本地堂と、
上野東照宮の本地堂の部材を加えて本堂として再建された。
秘仏薬師瑠璃光如来は最澄が自ら彫ったと伝わる。

 これはよく知られる説であり否定するものではないが、私は別の説も持っている。天海は以前から忍が岡を東の比叡山にするにふさわしい地と知っていたのではないかと思うのだ。

 実はそこには以前から天台宗の寺があった。薬王山養源寺という。天長年間[824~834]に慈覚大師円仁によって創建された。最初の場所はよくわからないが、清水観音堂の辺りではないかと推測する。

薬王山養源寺
現在は豊島区西巣鴨四丁目にある

 おそらく円仁が東国、東北を巡錫した天長六年から七年のことだろう。そしてここに寺を建てるきっかけを作ったのが小野篁だと考えている。同じくかつて忍が岡にあった小野照崎神社の祭神である。

小野照崎神社
現在は台東区下谷二丁目にある

 その由緒によると、小野篁が上野国こうずけのくにの任地からの帰途、忍が岡に逗留し、その地の眺めを褒めたという。仁寿二年[852]篁が死去した知らせを聞いた里人が、篁に感謝して祀ったのが小野照崎神社なのだという。養源寺は小野照崎神社の別当寺である。

 篁がいつ上野国に行ったのかは不明である。上野国司になったことはない。しかし、群馬県前橋市の釈迦尊寺に篁が勅使として訪れたという記録がある。

 それにしても、篁が京へ帰る途中、ルートから外れる忍が岡になぜ立ち寄ったのだろうか。眺めを褒めたというだけで、里人が感謝して神社を建てるとはどういうことなのか。

小野照崎神社

 これは全くの想像だが、ここは元々小野氏に縁の土地、領地だったのかもしれない。そして、この景色に小野氏本貫の地、琵琶湖のほとり坂本にある小野の里を見たのではないか。おりしも東国巡錫中の円仁とここで会い、ここに寺を作ることを提案したのではないか。里人はそれに感謝し、篁の死後神社を建てた。
 その証拠に、寛永寺の造営に伴い養源寺と小野照崎神社は下谷に移転したが、そこは坂本という地名なのである。

 天海はそのことを知っていたのではないだろうか。忍が岡を比叡山に、不忍池を琵琶湖に見立て、その景色を褒めたのが小野篁だったということを。

寛永寺開山堂(両大師)
開山した慈眼大師(天海)と天海が尊崇した慈恵大師(良源)
を祀る

 天海はここをより比叡山に近づけようとした。不忍池には小さな島があって聖天の御堂が建っていたが、拡張して琵琶湖の竹生島に見立て辯天堂を建てた。

不忍池辯天堂
清水観音堂の舞台
円形の松の枝の間から辨天堂が見える
観音堂の円を描く松はこの浮世絵を参考にしたのだろう
清水観音堂
創建当初は摺鉢山に作られた
現在地の桜ケ丘に移されたのは元禄七年[1694]

 また、清水観音堂は京都の清水寺の見立てである。延暦寺だけでなく、京都の有名な寺も再現した。
 ちなみにここではないが、港区の愛宕山の愛宕神社も家康の命により創建された。京都の西北にある火伏の神である愛宕神社を、江戸市中で一番標高の高い場所に勧請したのだ。やはり、家康、天海は共に京都を意識し、京に対抗して江戸に武士の都を造ろうとしたのだと分かる。

摺鉢山の上野大仏
関東大震災で顔が落下
その後再建されることなく体は太平洋戦争で供出された
これ以上落ちることが無いので、合格祈願の御利益があるとされている
時鐘堂
右に見える建物は上野精養軒
天海僧正毛髪塔
天海の毛髪を納める。
天海は寛永二十年[1643]寛永寺子院の本覚院にて示寂し、
遺言により日光に埋葬された。
本覚院には供養塔と、この毛髪塔が建てられた。

 もともと祈願寺だった寛永寺に家光の息子の四代家綱と五代綱吉が続けて埋葬された。これは将軍自身の遺言によるが、菩提寺の増上寺は激しく抗議した。それで六代、七代は増上寺に葬られるが、八代吉宗は寛永寺に。以後
十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓がある。

家綱御霊廟勅額門
太平洋戦争の空襲で建物は焼失したが、この勅額門は残った
重要文化財
綱吉御霊廟勅額門
こちらも重要文化財
現存する勅額門は二つだけ

 増上寺同様、寛永寺も空襲の被害を受け、霊廟も破壊され、わずかに宝塔や水盤舎が残されている。今回は中の見学はできなかった。

 上野東照宮は寛永四年[1627]藤堂高虎と天海によって建てられた。三代将軍家光は当初の建物に不満で、慶安四年[1651]に作り直された。社殿、唐門、銅製の灯篭など、上野戦争、関東大震災、太平洋戦争の被害もなく、すべてが国指定重要文化財である。

唐門
唐門の彫刻
左甚五郎作と伝わる。
夜な夜な不忍池に水を飲みに行くという伝説がある。
唐門の彫刻
社殿
祭神は徳川家康、吉宗、慶喜
もちろん、吉宗、慶喜は当初の祭神ではない。
当初は山王権現、摩多羅神であった。
御三家、大名から寄進された銅灯篭は48基ある。
五重塔
この塔は東照宮に付随していたが、明治の神仏分離令により、
破却を恐れた宮司が寛永寺に所有権を移したために生き残った。
現在は動物園の敷地内にあり、東京都が管理している。
内部の仏像は東京国立博物館に寄託されている。

 現在、寛永寺の建築物は鶯谷寄りに集中しているほか、上野公園の周辺部に散在しているが、中心には何もない。これはもちろん、慶応四年[1868]の上野戦争の結果である。

 最後の将軍徳川慶喜は大政奉還後、慶応四年四月十二日に江戸城を明け渡し、寛永寺の通称「葵の間」に蟄居していた。

慶喜蟄居の葵の間の外観。
現根本中堂の裏にある。
葵の間
壁の窓の隙間から。

 天海は御三家の内、江戸の鬼門にある水戸家からは将軍を出さないようにと遺言したが、慶喜は唯一の水戸家出身の将軍だった。天海が恐れたとおり、慶喜は徳川将軍家を終わらせたのだった。

 慶喜は官軍が徳川将軍家の墓所を荒らすのではないかと恐れ、彰義隊に上野の山を守るように命じた。官軍は輪王寺の義観に彰義隊を解散させるよう説得した。輪王寺とは、天海の死後、御水尾天皇の親王が日光山、東叡山の住職となり、以後代々輪王寺宮と号したことによる門跡寺院である。義観は輪王寺宮執当(寺務の責任者)だった。

しかし、義観は拒否したという。「一朝事あらば此の宮(輪王寺宮)を還俗せしめ、奉じて以て京都の朝廷と対立せんとせる者」という輪王寺宮設置理由があったからという。幕府を倒そうという敵が現れたら、輪王寺宮を新たな天皇として対抗する。これは天海の遺言だというのだ。日光には一幅の錦旗も収められていたという。


旧本坊門(通称黒門)
奥に見えるのは輪王殿

 五月十五日、ついに決戦の火ぶたは斬られた。官軍は上野の山を包囲し、アームストロング砲を雨あられと打ち込んだ。

黒門には砲撃、銃撃の弾痕がいくつも残る。
大きい穴が官軍のアームストロング抱だろう。

 彰義隊は決死の覚悟で戦ったが、わずか一日で勝敗が付き、全滅してしまった。
 寛永寺の根本中堂は官軍が火を放って焼失した。

上野公園の噴水の辺りに根本中堂があった。
その奥の東京国立博物館が本坊跡である。

 彰義隊の死骸はその後上野の山に三日放置されたが、南千住圓通寺住職の仏磨らの手により当地で荼毘にふされた。
 明治七年[1874]、元彰義隊の小川興郷らが明治政府の許可を取り、墓を建てた。

彰義隊奮戦之図
彰義隊の墓
荼毘にされた場所に立つ

 明治政府は寛永寺の真ん中を西洋風の公園にした。


 「勝てば官軍」と江戸雀はささやいた。

  

 

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