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将門を祀る?海禅寺(台東区)

 日輪寺の次に海禅寺へ向かうために西に行く。かっぱ橋道具街通を渡り、合羽橋交差点からかっぱ橋本通へ入ってさらに西に進むと、石造りのどっしりとした門が右手に現れる。

合羽橋交差点

 大雄山海禅寺は臨済宗の寺。最初は神田明神の近くの妻恋に、慶長八年[1603]に起立、寛永元年[1624]草創されたという。この地に移転したのは明暦の大火(明暦三年[1657])のあと。

山門はさらに奥にある。

 開山の周嘉和尚は下総国相馬郡高野にある大雄山海禅寺の住職で、将軍秀忠公の命により江戸に出府し、秀忠、家光親子に足利家歴代の憲法や経論護法について講義をした。そして妻恋に草庵を賜った。
 つまり茨城県守谷市にある同じ名前の大雄山海禅寺が法源地の寺なのである。

山門

 この茨城の海禅寺が実は平将門が創建した寺なのだ。守谷市は将門の城があったところで、海禅寺は将門が高野山の金剛峯寺になぞらえて建立したと伝えられている。将門と七人の影武者の墓がある。

 つまり、この台東区の海禅寺は間接的ではあるが、将門に縁ある寺ということになる。(ちょっと、強引?)

本堂と蜂須賀家寄進の石灯籠

 この寺は諸大名からも崇敬を集め、特に蜂須賀家があつく庇護したそうで、阿波様寺などと呼ばれていたようだ。


 本堂の真向かいに背の高い石灯籠があった。近づいてみると・・・。

 何?大僧正天海だと⁉

 正保二年乙酉は1645年。天海僧正が亡くなったのは寛永二十年[1643]なので、これは三回忌に当たる年だ。寄贈したのは備前少将源朝臣光政、岡山の池田光正公だ。石灯籠両基と云うことは、元々二基セットだったのが、一つになってしまったのだろう。
 それにしても、なぜこの寺にあるのだろう。

 そういえばあれはどこだったか失念したが、東京郊外の某寺の庭にも、東叡山の山号のある大きな灯篭(大名の名が刻まれていた)が何基もあったのを見た記憶がある。もしかしたら明治期に荒廃した寛永寺に公園を造成するために、これらの灯篭は払い下げられたのかもしれない。


 本堂横の墓地に朱子学者梅田雲浜の墓がある。

右が梅田雲浜の墓
左は藤井尚弼の墓

 梅田雲浜は若狭国小浜藩士で、大津や京で朱子学を教えていた。幕府を批判したために藩を追われたが、藤田東湖、佐久間象山、高杉晋作らと交際し、尊王攘夷論を唱えた。幕政を批判し、大老井伊直弼排斥を企てたが、安政の大獄で逮捕され、小倉藩江戸邸の獄中で病没した。

 藤井尚弼は西園寺家に仕えた地下人(四位、五位の公家)で、尊王の志士と交流したが、やはり安政の大獄で逮捕されて、雲浜と同じく小倉藩邸で獄死したという。


 今回は平将門とあまり関係が無かったが、訪ねてみると面白い歴史ありということで紹介してみた。浅草寺や合羽橋道具街の近所だが、観光客は全く来ない(私が行ったときは境内に人っ子一人いなかった)静かなお寺さんだった。


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