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呪術都市江戸⑦

 家康の神号は東照大権現と決まり、吉田神道の神龍院梵舜の出番はなくなった。

 考えてみれば家康は秀吉を祀った豊国廟を破壊し、豊国神社を破却したのである。その豊国神社の社僧であった梵舜に、自らの神葬祭の神主を望むだろうか。

 現に梵舜は自分の日記に、豊国神社の破壊について「是非無キ次第也 哀レニ候也」「言語無キ也」と嘆いている。そして、その後毎月八日に塩断ちして薬師如来に何事か願掛けしている。八は陰(偶数)の極数である。(陽の日は吉日。陰の日は忌み日。)
 また破壊された豊国神社で、百日の日参祈願を行っている。
 梵舜が何を祈願していたのか分かっていないが、家康が駿府城で倒れたという知らせが入ると、その祈願をやめてしまった。
 このようなことから、津田三郎氏は『秀吉・英雄伝説の軌跡』で梵舜が家康を呪詛していた可能性があるという。

 このことは今だからこそ分かることだが、豊国神社破却の非情な仕打ちを考えれば、梵舜の気持ちも推し量れようというものだ。それを考慮せず、神葬祭に梵舜を起用した秀忠は、少々想像力が欠けていたと思わざるを得ない。

続:家康公の守護神のなり方?

 元和二年[1616]久能山に埋葬された家康の遺骸は一年後に日光に改葬されることになった。

 家康の遺言は金地院崇伝の『本光国師日記』によれば、「一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて 勧請し候へ 八州之鎮守ニ可被為成」とある。
 小さき堂を建てて御霊を勧請するのと、改葬ではだいぶ意味が違う。なぜ改葬することになったのか。

 それはまたしても、天海が言い出したことだった。例によって改葬は家康の遺命だというのである。これは事実なのか、それとも天海の一存なのか今でも意見が分かれているようだ。

 『徳川実記』によると、天海は家康から次のように言われたという。
「つたえ聞く むかし大職冠鎌足は 摂州阿威に葬り 一年過て和州淡峰に遷葬せしとか 
我なからん後にはこの例になぞらへ 遺骸をばまづ駿河の久能山に葬り 三年の後野州日光山にうつすべしと御遺命ありしかば 和尚もなくなく御請申し‥‥」

 大職冠鎌足とは中臣(藤原)鎌足のことである。中大兄皇子と共に乙巳の変で蘇我政権を倒した鎌足に始まる藤原氏の栄華は、天皇の外戚になることで事実上朝廷の権力のトップであり続けた。
 鎌足は近江で薨去し、摂津の阿威山に葬られた。『多武峰縁起』によると鎌足の長男定恵じょうえは唐に留学中に夢に亡き父が立ち、多武峰に寺を建て、改葬するように告げた。また『多武峰畧記』に多武峰は吉相の地なので、そこに墓を造れば末代まで子孫が繫栄するという。

 法相宗として始まった多武峰の歴史は、この頃には天台宗に変わっており、家康は幕府を通じて三千石の朱印領を与えている。
 なお、日光東照宮は談山神社の本殿、拝殿、東殿、神廟拝所などの建築群を模して造られたらしい。

 家康が日光を自分の神廟に選んだことや、多武峰談山神社のことはやはり天海の影響があるとみてよいのではないか。日光もまた天台宗の霊場であるからだ。家康の死後の祀られ方について、遺命があったかは分からないが、二人が何らか話し合っていた可能性は高いと思う。因みに、家康は生前一度も日光に行ったことはない。

 つまり、日光で八州の鎮守になるというのが表の遺言だとしたら、徳川氏の子孫繁栄は隠された裏の遺言ということになる。
 天海はこの秘密の遺命を山王一実神道で実現するため、強引に改葬を進めた。
 崇伝に対し天海は云う「御遺命は山王一実習合の神道也(略)神君の尊慮は後裔の長久を願はせられしかば 豊国明神の後の如く 忽然亡したる凶例を何ぞ願はせ給ふべき。鎌足公の跡を慕はせ給ふ也」

 元和三年[1617]三月十五日、久能山に埋葬されていた家康の霊柩を運び出す。何と天海自ら鍬を持ち掘り起こしたらしい。天海の年齢は不詳だが家康よりは年上なので八十を越すと思われる。
 日光までの渡御行列はまるで生きている人を運ぶがごとく厳かなものだった。日光で毎年五月に行われる「千人武者行列」はこの時の行列を模したものだそうだ。
 そして四月八日、霊柩は日光に収められた。十七日は家康の一周忌で、この日に正遷宮が行われ、正式に御霊は日光に鎮座した。

日光東照宮
家康の墓

 社殿の造営は久能山と同じ大工の中井正清が担当した。一年も期間が無かったので簡素な建物と思われるが、後に家光がそっくり豪華絢爛に建て替えてしまったので、実際はどういう建物だったかわからない。久能山東照宮のような建物かも知れない。

 日光の場所を確認しておこう。そこはほぼ江戸の北にある。この北という方位が重要なのである。

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 古代中国では「天子は南面す」という言葉がある。宇宙を主宰する天帝は、北天にある不動の星、北極星を玉座としている。その天帝から天命を受けて人民を治める者が天子(王、皇帝)である。天子は天帝のように北に坐し、南を向いて統治する。
 古代中国の王宮が都の北にあるのはこのためで、日本もこれを取り入れて都を設計した。例えば、平安京も御所は北にあり、太極殿は南向きに建っている。
 また、中国では霊廟を北郊に祀ることが多いらしい。

 つまり、江戸の北に霊廟を作るということは、家康の御霊を天帝のいる宇宙の中心北極星に祀るに等しいのだ。道教では天帝を太乙、泰一、太一といい、北極星を太一星という。伊勢神宮では天照大神は太一神と同一視されていた。東照大権現も太一神と同一とされた。皇祖神と同等の神となったのだ。

 日光は古くから関東随一の霊場として有名で、秀吉により日光山領の多くが没収され荒廃していたが、家康は日光を崇敬していたという。何といっても、天海が日光山の貫主を勤めていて日光の再興を望んでいた。

 日光東照宮の陽明門、唐門、本殿は南北に並び、陽明門を見上げると中心に北極星が輝いている。本殿に向かって拝礼すれば、自然と北極星を拝礼することになる。

 NHK大河ドラマ『葵~徳川三代』のOP、覚えていらっしゃるだろうか。曲の終わりごろ、陽明門の真上の北極星を中心に、星々が同心円を描くドラマチックな映像を。あれはCGかもしれないが、スローシャッターで撮影すると、あのような画が撮れるそうだ。
 

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